口下手(詩)

「聖母のように優しいですね、全部肯定するじゃないですか。」
「口下手なだけです。口下手な人は悪口言えないんですよ?」
 確かにその通りだ。私がワーワーとわめきちらかし、口が上手いなどと勘違いしているのは、悪心をユーモアで隠蔽できたと思っているからである。ユーモアが心地よいのは私の愚かさを、悪しき魂を隠蔽し、人に渡すことで身を軽くしているからだ。
 それは適者生存の戦略で、小さな進化論によるものである。私の在り方は単なる不満の発散にすぎず、私が常に恐れているのはそんな自らがバレることであった。矮小な自らを吐露すること、それは図らずも性愛と結びつき、歪な混合物となり、私を苛んでいるのである。
 大学生の頃、ひとりで話す練習をしていた。ライブのMCの練習だと言い張っていたが、実際は、つまらない自分が心底憎かったのである。中学校、高校と、わたしの話したいことを受け取ってくれる人は少なかった。そこでは面白いこと(お笑い的であること)こそが至上命題であり、私にその能力はなかったのである。心底不思議だったのが、同じ内容であっても誰が言うかによってまったく反応が違うことである。恐らく私の発話はぎこちなく、奇妙で不気味に写ったのであろう。どうやら言葉も見た目も全て同じなのに、私は違う星の住人らしい。その寂しさは全て歌を作ることによって解消されていた。しかし、それは20の年齢になりついに破綻したのである。歌を作れども、それは解消されることがなく、私を苛み始めたのだ。
 よって、私は方針を変えた。
ユーモアによって、隠蔽されたものであれば、私の話を聴いてくれるのではないか。そのように考えたのである。高校生の頃に電化製品展で購入した小さなカセットレコーダー。小さなレコーダーに向かってまずは何時間も止まらずに話せるようにした。1週間もすれば延々と話し続けることが容易となった。次に、時間を計測しながら、1時間、30分、10分、5分、と時間を分けて話せるように訓練する。そして、聞き返しながらノートに抑揚や、話の構成の不備を記載していく。そして、それらをもとに同じようにレコーダーをまわす。当時はやっていたラジオや私の好きな放送を参考にしながら繰り返すのである。
 わたしは未だに、面白い自信がない。それは1人喋りができるようになっただけだからだ。相手がいるということが心底愛おしく、同時に心底恐ろしい。私は未だに同じループに住しているのである。
 もしもあの時、私の方針が変わらなかったのであれば。もしも、それに耐えうる力を持ち得たのであれば、私も聖母のように全てを肯定できたのであろうか。
 「口下手でよかったですね」
そういって、その後に、それに後悔するのである。

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