ボー(詩)

 「僕はボーだったようだよ。あの映画の中で語られることは全て詩であった。考察とか整合性とか考えてる人達がいるけど、谷川俊太郎の詩にいちいち整合性やら何やらを加える人はいないだろう?そんな風にしてみるなら、やっぱりあれは僕の物語だったと思うんだ。このままでは僕もあのボートのように木っ端微塵に粉砕されてしまう。自らの異端審問官によって裁かれ、劇場全ての観客になさけなく助けを求めて、そして悟るんだ。ああ、これが私の運命だったのだと。だから、僕はこのボートから降りなければいけない。このボートが連れて行く彼岸はやはり、恐ろしい母の待つ裁判場なんだ。裁かれている様を観ながら恐ろしかったのは僕が観客だったということだよ。誰かボーを助けてやれよ。誰もが思っていたに違いないのに、その誰もが。いや、僕も同様に身を乗り出して助けることはしなかったんだ。水とスクリーンはその瞬間同質のものとなり、ただ成り行きに身を任せて、席を後にするその動線を確認する僕らはボーであり、そして聴衆であった。それが何よりも恐ろしいことだったんだよ。そして、僕は安部工房の壁を思い出していたんだ。裁判のはてに、何も言わずに荒野に佇む壁になる話。壁になり、観客となり、次の裁きの順番を待つ、僕らはいったいなんだというのだろう。救われることは能力で、僕にはその能力がないんじゃないだろうか。そういう無能力が僕は一等怖いのだよ。可哀想なボー。可哀想なボー。あの日、交わされたキスだけ、約束だけ幻じゃなかったことを僕は揺れる波間に願ったんだ。ああ、だから僕は今数多の方便のなかから、数多のボートのなかから、このボートを選んだ。壁にされた人間たちを、裁きによって作られたこの街を解体する手立てとして、この方便に、祈りを託しているんだよ。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?