なぜだろう?

学生時代に仲が良かった友達がいた。

自分が通っていた学校は、何か運動部に入らなくてはいけなかった。

話の本筋とは関係ないのだが、
これは私と友人だけ限った話ではないと思うのだが、
運動は得でないし、正直部活の選択肢も少ないので、
仕方なくやっていたという方もおられるし、
現在進行形でそうだという学生さんもいると思う。

当時、私はある提案を先生にした。

部活動をがんばって、もっとうまくなりたい、
もっと大会で勝ちたいと思っている者と、
なんでやりたくもない部活動を、がんばらなきゃいけないんだ?
と思っているものたちのギャップは絶対に埋まらない。

そこで、どんな運動部でも運動前のアップだけ付き合って、
大体一時間以内で終わると思う。
それが終わった後は、練習の手伝い、(道具の準備、かたずけなど)
をするか、部活が終わるまで、自習するのか、
どちらかを選択できれば不満はなくなるのでは?
と提案しました。

これも、私の記憶の中でしかないので、
実際に提案したかも定かでもないですし、
当時、これだけ考えて言ったとは考えにくいです。

若い時、運動はある程度やった方がいいとはわかっています。
だからといって、やりたくもない運動を続けるのはよくないです。
そうだと言って、帰宅部がいいとは思いません。

まあ、提案など通るはずもなく、部活動に明け暮れることになるのですが、
ある時友人が、私が普段以上にサボった動きをしていることを
良くないよ、と言ってきました。

私は、いいじゃないか、ちょっと疲れたから、
友人もそうだろ、無理せず休んだ方がいいよ、
別に頑張ったってうまくなるわけでもないし、
と答えた。

すると友人は、でも、頑張っている人たちに悪いから。
と答えて、練習に戻っていった。

友人は運動は得意ではない、これを悪口と思うならそれでいいです。
それに体力もあるほうでもない。
だから練習に戻った友人はすぐに息をあげて、
フラフラしていた。
しかし、それでも何とかメニューをやり切ろうと頑張っていた。
結果はほとんどできていなかったが、私はすごいと思った!
自分がやりたいことでもなく、得意でもなく、達成できないという中で、
決して、不貞腐れることなく、練習を続けていた!
やりたくないというのは、私の拡大解釈かもしれないが、
私は見ていた、あの状況ならあきらめが出てしまうと思っていたが、
最後まで頑張っていた、私が証明できる絶対にだ!!

それも、一度ではない、何度も何度もそれを見ている!
だから私もサボるのは、ほどほどにした。
だけど、腐りきらずに頑張ることができたのは、
間違いなく友人のおかげだ!ありがとう!

社会人になって十年以上過ぎた時に、
友人が亡くなったという話を近所の方から聞いた。

友人は珍しい苗字ではないので、同じ苗字の方で
別人だったことがあった。(別人だからいいということではありません)
前にもあったな、と思ったのだが、なぜか、胸騒ぎがした。

噂を聞いてから、数日後、私は友人宅を訪ねた。
玄関で呼びかけると、しばらくして、家族の方が出てこられてました。

私はこの時、友人が亡くなったというのは、
誤った情報と思っていましたので、
友人がなくなったとうわさで聞きまして、
その話は本当なのですか?
と聞きました。

私は、自分のことも名乗らず、いきなりこの話を切り出したため、
家族の方は戸惑っていましたが、

一言、はい、と答えました。

私は軽い混乱状態で、自分が学生時代の同級生であったこと、
同じ部活動でがんばっていたこと、そして本名を名乗った。
家族の方は少し首を傾げた状態でしたが、私を家の中に案内し
社会人になってからの友人の話を少し話してくれた。

話が終わってから私は逃げるように友人宅を後にした。
友人が亡くなったと聞いてから、
ずーーっと頭の中で信じられない、そんなわけない、
と、永遠に繰り返して考え続けていた。

正直、家族の方が答える瞬間まで、嘘だと思ってましたよ。

そんなわけないだろ。

あの友人が?

ありえないだろ。

それが、

一年後、私は友人の墓を探していた。
家族の方に尋ねれば解決した話だが、
色々衝撃的な話がたくさんあって
正直それどころじゃなかった。

亡くなった事実もそうだが、
家族だけで葬儀が行われていたということ、
噂が流れてきたのは亡くなってから二日目だったこと、
友人宅周りには私の近所の方にも知人はいないこと

今でも虫の知らせはあるんだと、ホントに思いました。
この友人の墓の場所にたどり着いた時もそうです。

一年後の友人の命日に、私は友人宅を訪れました。
そう、友人の墓の場所を訪ねるためです。
しかし、家族の方は留守でした。
いつ帰ってくるかもわからないし、
このまま待ち続けるのも忍びないと思い、
後日改めることにしました。

友人宅から帰るときに、通る道に神社があるのですが、
なぜか、その時お参りをしてから帰ろうと思い、
そこに寄ることにしました。

そこで、お参りして帰ろうと思ったら、
神社の管理人の方がたまたまいまして、
普段なら声なんてかけない私が、
友人の墓を探していると伝えました。

すると、友人宅の近くにあることがわかり、
そこに向かって行くと墓地がありました。
そこに、友人の墓がありました。

皆さんは涙はどうやって出てきますか?
私もさまざまな理由で涙を流したことがありますが、
墓石に友人の名前が彫ってあるのを確認した瞬間、
涙が流れました。
私は衝撃を受けました。

これ、自分だけかもしれませんが、涙が流れる前って
出そうだなって感覚ありませんか?
あと、止めようと思ったらある程度コントロールできます。

それが、出来ませんでしたし、突然出てくるなんて、
この出来事以外ありませんでした。

友人が亡くなった話を不謹慎な書き方をしているかもしれませんが、
亡くなってからある程度時間は過ぎています。
直後なら絶対できませんよ。

これは、自分の心の整理のために書こうと決めました。
もちろん、亡くなった家族の方にも許可を取っていません。
もし、家族の方が気づいて消してくれとのことなら対応します。

なぜ、この記事を書こうと思ったのは、
最近、この出来事を思い出すきっかけに
なるようなことがありました。

それは、初めて友人の墓参りに
行ってから思い続けていたことです。

親しきものがいなくなったことは
この世界では覆らない

これは、どのようなものでも、
この世界に生きているかぎり
その条件は同じである

ずっとこの先も一緒だと思っていた
それが、事故、病気、災害、自〇
によってそれが叶うことがなくなった

この先の未来が
良くなろうと、悪くなろうと
どちらであっても親しきものはいないんですよ

それでも頑張らなきゃいけないのですか?

頑張る必要がどこにあるんですか?

頑張ったって親しきものはもういないじゃないですか?

だったら、未来のことを考える必要はないんじゃないですか?

どんなに頑張ったって自分の求めた未来にはたどり着かないのですよ?

それでも頑張れと言うのですか?

当時、考えていたことですね。

ちなみに、神を信じていない者が

神なんていない!

とよく言いますが、この言葉を使っている時点で
神の存在を認めていることに
気づいていない人ばかりですよね。

私の考えですが、
存在しないものを否定することはできないからです。
そして、認識されていないものに、あるもないもないからです。

記事を書いたことで、かなり気が紛れました。
ここまで読んでいただきありがとうございました!
もし、不快な思いをされた方がいましたら申し訳ありませんでした。

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