港区女子と女給

「女給(じょきゅう)」コトバンクより引用。
 女子給仕人の略称であるが、もっぱらカフェーの従業婦をさした。
明治時代に初めてカフェーが出現したころには単なる給仕人で、女ボーイなどとよばれたが、カフェーが近代人の好みにあい、新しい社交場として急激に増加するとともにサービス女化し、女給人口も昭和初年には全国推定6万人に達した。東京の女給の白エプロン姿は給仕女としての名残であったが、客の飲食物を運ぶ以外の仕事をせず、客と同席して遊興を助けた。収入のほとんどがチップに依存するため、露骨なサービス競争を演じ、一部に売春常習者がいたので私娼とみられることもあった。しかし、女給は職業婦人の先端であり、カフェー出現の最初から芸術家と関係が深く、一時はカフェー(女給)時代を現出した。第二次世界大戦により禁圧され、戦後に営業を再開したが、現在では女給の呼称が廃れ、ホステスと称するようになり、風俗・業態とも一変している。

 さらに、中原中也全詩集より引用する。

「女給達」1935.6.6

 なにがなにやらわからないのよ――流行歌

彼女等が、どんな暮しをしてゐるか、
彼女等が、どんな心でいきてゐるか、
私は此の目でよく見たのです。
はっきりと、見て来たのです。

彼女等は、幸福ではない、
彼女等は、悲しんでゐる、
彼女等は、悲しんでゐるけれどその悲しみを
ごまかして、幸福さうに見せかけてゐる。

なかなか派手さうに事を行ひ、
なかなか気の利いた風にも立廻り、
楽観してゐるやうにさへみえるけれど、
或ひは、十分図太くくらゐは成れてゐるやうだけれど、

彼女等は、悲しんでゐる、
内心は、心配してゐる、
そして時に他の不幸を聞及びでもしようものなら、
「可哀相に」と云ひながら、大声を出して喜んだりするのです。

 88年前とちっとも人間は変わっていない。今夜も港区では、ところどころでパーティー。港区女子は派手に着飾り、気の利いた、または不遜な態度でタダ酒とタダ飯を喰らい、ギャラ呑みに勤しむ。昼の仕事の収入を遥かに超える収入をえるため、露骨なサービス競争を演じ、体さえ売る。
 一方で、未来への不安に悲しんでいるが、幸福そうに見えるようSNSにきらびやかな画像、映像をあげている。自分の夜の立廻りを、仕事という体にすることでプライドを保ち、図太く生きているように思いこむ。
 うまく若さを売って、良きタイミングで卒業し、幸せを掴む港区女子もいるだろう。一方で、25歳にもなると、港区ではもう若くない。30歳ではもう呼ばれない。しかし、一度覚えた贅沢を忘れられず、一般男性を見下し、夜職で食いつなぐ。ビジネスを始めても、上手くはいかない。気が付けば、三十代後半。婚活しても、理想が高くマッチングしそうにない。
 彼女等は悲しんでゐる、
 内心は、心配してゐる、
 そして時に他の不幸を聞及びでもしようものなら、
 「可哀相に」と云ひながら、大声を出して喜んだりするのです。
 
 個人的に、港区女子を全否定はしない。人間、生まれ持った気性と、環境で育まれる性格を携え生きている。どんな生き方であろうと、それがその人にとっての「自然」。その自然が美しいかどうかなんて、どうだっていい。  断崖絶壁に、「やい、もうすこし平らになったどうだ」なんて言っても、無理がある。断崖絶壁な、彼女等なりの生き残り方がある。 
 その邪悪さも、無邪気な欲望も、磨いた美貌もそれが彼女等の生きる道。
他人が、よそ者が、石を投げてほくそ笑むなんて、醜いにもほどがある。
 なんて言ってられるのも、私に接点が無いからか。
 間違って富裕層の仲間入りなんてしたら、港区に足しげく通い、金をバラばいて遊んでしまうのか。お開き、帰宅後の侘しさに押しつぶされそうだ。
 捕らぬ狸の皮算用は、ここいらで止めて、本稿を了とする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?