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昨日から明日へ繋がる今日

新しいノートを買った。
特にかわいいとか、かっこいいとか、気に入ったわけでも、使いやすそうだとか言うわけでもなかった。
文房具屋さんをぶらぶらと目的もなく歩いていたら、なぜかそのノートが目に付いた。
何の変哲もない、普通のノート。表紙に観葉植物の写真が印刷されているだけだった。
それまで、立ち止まることもなく店内をただ歩いていただけだが、そのノートと目が合った瞬間に立ち止まってしまった。
手に取り、ペラペラとページを捲る。
紙の匂いと同時に、懐かしくもあり親しみのある匂いが混ざって私の顔面に静かに風を漂わせた。
思わず鼻を啜り、右手の人差し指の裏で鼻を擦った。その匂いは、私の何かを動かした。
そのノートを小脇に抱え、衝動的にも隣の陳列棚に向かい、油性ボールペンを選び出し、慌てる必要もないのに早足でレジに向かいお会計を済ませた。

日曜の午後。
特に用事のない日でも、近くのショッピングモールへやって来る。ほぼ、散歩コースのように店内を歩き回る。日曜日はたくさんの家族連れやカップル、中学生らしき数人の男女グループが、はしゃいでいたりしている。ぐずる子供をあやすお父さん。泣き止まない子供に本気で怒りをぶつけるお母さん。言葉巧みにおじいちゃんにおねだりするおませな少女。エスカレーター付近のソファに座る、置いてけぼりにされているであろう初老の壮年。
いつもの風景だ。おそらく、あの壮年は私を見て、「また、歩き回る中年男性だ。」
と、こちらを認識しているだろう。
普段とは違い、小脇にノートを抱えて少し嬉しそうな私の姿を見て、壮年はあからさまに驚いていた。それが、たまらなくおもしろかった。
エスカレーターで一気に2階まで降りた。
吹き抜けの2階の通路から、1階にある有名チェーン店のカフェを覗き込む。案の定、いつも通りの長蛇の列ができている。私は知っている。1階のカフェより2階の小さなコーヒーショップの方が空いている。コーヒーショップは喫茶スペースを併設している。そこが混雑しているところを未だ見たことがない。コーヒーが不味い訳ではない。立地が悪い訳でもない(はず)。なのに、いつも空いている。
早足のまま、コーヒーショップに入った。
ホットコーヒーを注文し、一番奥のソファー席に腰を下ろした。
ウェイトレスさんが来る前にノートを広げる。ボールペンの先をノックしペン先を出す。
独特な緊張が走る。
真っさらな1ページ目。
『明日こそ』と書いた。
ウェイトレスさんがコーヒーを運んで来てくれた。
『ごゆっくりどうぞ…。』
『ありがとう。』
コーヒーカップに口を付け、啜る。熱い!
ウェイトレスさんが、厨房の中に消えた。
窓際の席におばさんが2人、向かい合いヒソヒソと何やら話している。アイスコーヒーのグラスはとっくに空っぽのようだ。
観葉植物の向こう側には同年代と思われる女性がひとり。両手で抱えたコーヒーカップを丁寧に口元へ運ぶ。視線が右斜め上を向く。その姿がおもしろかった。その後もコーヒーを啜る音が聞こえてくる。啜る度に、その音を聞きたくなっていく。その女性の視線を感じる。何故か嫌な気持ちにならない。むしろ、親近感を覚えた。

何も変わらない日常。
特別、変わったことはない。
だけど、おもしろかった。楽しかった。
コーヒーは苦かった。
『明日こそ』と書いた次の行に、
『おもしろい日常を過ごそう。』
と書いた。
毎日、ビデオを再生しているかのような日常の連続であるにもかかわらず、変化を求めることもなく、変わることを避けてきた。
変わることを避けながら、変わらないことに嫌気が差していたのかも知れない。
それでも、そんな毎日が嫌だった訳ではない。
だけどこのノートを見た途端、頭の奥の方から太陽が昇ったのだ。確かに陽が差したのだ。

無意識に書いた1行目の文字は『明日こそ』。
本当は望んでいたのかも知れない。
きっかけなんて、そんなものなのかも知れない。
3行目には、
『昨日から明日へ繋がる今日を生きよう』
と書いた。
言葉はどこから出てくるのかわからない。
ノートの表紙の名前も知らない観葉植物が、私に語りかけてくるのだ。

観葉植物の向こうの女性が、葉っぱの間からこちらを見ている。
「やっと気づいてくれたんですね。」
と、人懐っこい笑顔で話しかけて来た。
私はなぜか
『待たせて、ごめんね。』
と言っていた。

エスカレーター付近のソファーに腰掛ける初老の壮年は、今はもう車椅子に乗っていた。
あれから『日常』は変わりながらもここにある。
今日も空いている喫茶スペースの一番奥のソファーに腰掛け、ホットコーヒーを啜る。
私の隣には妻がいる。観葉植物の向こう側から覗き込んで来た彼女、みどりさん。
昨日から明日へ繋がる今日は、おもしろい日常の連続だった。
ノートは3冊目になっていた。
表紙の写真は、かわいい子猫の写真が印刷されている。
この子猫に親近感を覚え、『私を手にとって…』
と言わんばかりに、引き寄せられらるかのように手に取った。
最初のページの1行目。
『生まれてきてくれて、ありがとう』
だった。
言葉はどこから出てくるのかわからない。
ノートの表紙の名前も知らない子猫が、私に語りかけて来たのだった。
翌年、みどりさんはかわいい女の子を産んでくれた。


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