見出し画像

時間の中へ

【あらすじ】
仕事に生き甲斐を感じていると思い込むことで、生きる意味を自己満足的に肯定していた野原。
ある日、同僚から言われた言葉を機に自身の人生を見つめ直すことに。
積極的に変わろうと試みるが、変わったのは自身の心境だけだった。
その矢先、先輩の大沢さんからある「噂話」を聞く。
無理に頑張りすぎる奴はみんな消えてしまう。
出張先で野原が目にした言葉は、大沢さんが言っていた言葉だった。
──「時は母なり」──
この言葉に込められた意味を、体現していく野原。
生きていくうえで大切なものを見失うことは罪である。
その戒めを込めて存在する大沢さんが伝えようとしたことは?
大切なものに気付く人と気付けない人との違いは何か?


 毎日が忙しすぎて、目がまわる。と言っても本当に目が回っている訳ではない。ただただテキパキと仕事を捌いていく。次から次へと任せられる仕事は、すべて素っ気なく終わらせていく。同期の奴らに比べると、3倍は仕事をしているだろう。それでも、文句は言わない。愚痴もこぼさない。ただひたすら仕事を片付けていく。おそらく、奴らと給料も変わらないだろう。それでも、文句を言わないのは、仕事が楽しいからだ。仕事をしている時は、他に何も考えずにいられるのだが、仕事以外の時間では自分には何もないことを思い知らされるようで怖かった。この先のことも考えたくはない。30も半ばを過ぎて仕事しかないことを考えると、不安しかない。一度、深く考えてみたら、死にたくなるほど怖かった。仕事を楽しむしか楽しみはなかっただけの、ただの言い訳にしかすぎなかった。

 職場にいれば、仕事のできるやつと呼ばれて浮かれていられた。しかし、それは褒め言葉ではなく、人をうまく操り、揶揄する言葉だと知ったのは、ついこのあいだのことだった。同僚の真澄さんから言われた言葉だ。
「あんた、仕事しているときが一番楽しそうね。そんなに仕事ばかりして、楽しいの?疲れたりしないの?ま、どうでもいいけど。」
投げやりな言い方の裏に、彼女らしい優しさを感じていた。
「別に…。疲れてるよ、ほんとは。でも、仕事してない方が疲れるんだよね。」
「変な人ね。」
「そだね。ありがと。」
「別に褒めてないし。ほんっとに変な人ね。言っとくけどあんた、仕事のできる奴って思われて浮かれてるみたいだけど、それ、違うからね!みんなから都合よく扱われてるだけだからね!」
 真澄さんが心配してくれていることはわかったが、それ以上の感情を持っていたなんてことに気づくことはなかった。人の心は言ってくれないとわからない。好かれているのか、嫌われているのか。いつもそうだった。人の心の中なんて想像するだけで、吐き気がしていた。
「ありがと。優しいですね、真澄さんは。」
 屈託のない最高の笑顔で返事をしたつもりだったが、真澄さんには伝わらなかった。彼女が放った言葉だけが心にグサリと突き刺さったまま抜けない棘のように僕の心をチクリ、チクリと突き刺していた。真澄さんはまだ何か言いたげだったが、前髪で顔を隠すように去って行った。彼女はいつも僕のことを心配してくれる。心配するだけじゃなくて、仕事以外の世界にも僕を連れ出してください、とは言えないからこそ今までずっと1人ぼっちだった理由がここにある。自分ではわかっていた。ただ、自分を主張すれば嫌われるという過去が、心を開かない理由だということも。 
 子どもの頃から社会人になってもなお、人付き合いが苦手で、周りに合わせるのが苦手で辛かった。クラスのみんなとも野球やサッカーもテレビゲームもしてきた。だけど、1人でプラモデルを創ったりしている時間の方が楽しかった。
みんなの中にいると、『こうすればいいのに』と何度も思うことがあった。それが原因で野球でもサッカーでもうまくいかないことが度々起こる。勇気を出してある日、『こうしたほうがいいよ』と改善策を提案をしたら『うん、わかった。』と言っただけで実行はされない。あまりよくは思われていないんだなということを悟った瞬間だった。クラスの仲間はみんな悪い奴ではなかったけど、個人的に繋がる人はいなかった。だから『友だち』ではなくクラスメートで、僕は大勢の中の1人だった。
 これまでに女子から2回ほど告白されたこともある。そのうち1人の子とはお付き合いをしたこともある。デートにも行った。その後、見事にフラれることになったが、交際は3年も続いた。フラれた理由は『退屈だった』だ。あんなに楽しませようと一生懸命にやってきたのに。彼女が疲れないように、喜んでもらえるように、感動してもらえるようにがんばっていたのに。楽しんでもらえていたと思っていた。遊園地に行きたいと言うなら最善のデートプランを考え、おいしいハンバーグが食べたいというなら、徹底しておいしいハンバーグ屋さんを探した。いまだに何が退屈だったのかがわからないままだ。人付き合いが嫌いになるのも無理はない。と、誰かに言ってもらえれば少しは楽になれたのかも知れない。
 
 真澄さんから言われるまで、今まで考えたこともなかった。仕事は全部、自分で片付けてきた。人に頼ることなんてしなかった。仕事以外では相変わらず1人でプラモデルを創ってるだけで、それすら誰にも迷惑なんてかけているつもりもない。会社にも同僚にも迷惑をかけているつもりなどないし、むしろ頼りにされていると思っていた。
 しかし、その心に刺さった抜けない棘のような一言は、今までの自分の人生そのものを否定するかのように、いつまでも消えることはなくチクリ、チクリとその痛みの度合いを増していくのだった。
 それから何かが変わり始めた。仕事以外に楽しみを探そうとしている自分に気付いた。「働きすぎなのかな?」と自問自答するようにもなり、同僚の人たちの会話に聞き耳を立てて、積極的に会話の中へ参加するようにした。何か一緒にできる楽しみ方でも見つけようと必死に会話を試みた。苦手なのは百も承知の上だった。やっぱり辛い。それをきっかけに疲れを感じるようになってしまった。
 
 それからしばらく経ったある週末。同僚の人たちが飲みに行くと言うので、一緒に行かせてくださいとお願いした。久しぶりの飲み会だった。
 お酒が入ると先輩も後輩も関係なく、みんな楽しそうにいろんなことを話していた。ほとんどが誰かの噂話のようで、聞いていてもあまり気持ちのいい話ではなかった。少し退屈だったが、同意を求められたら『そうですね…』と、口ごもるのが精いっぱいだった。その昔、付き合っていた彼女も僕のことをこんな風に感じていたのではないかと、後悔と反省と羞恥心が同時に僕の胸を締め付けて来た。
 入口に近い端っこの席で、目の前にあっただし巻き卵を突っつくように食べていたら、「お前、働きすぎだよ。」と、心配そうに同期の田代が話しかけてきてくれた。入社当時から面倒見の良い男だった。入社当時には2人で飲みに行くこともあった。お互い、プラモデルを創る趣味があったことで意気投合した。配属部署が変わってから時間が合わず、あまり話す機会がなくなったが、社員食堂ではよく隣合わせでお昼を一緒に食べた。
 飲み会の席では、すっかり出来上がってしまった噂話好きの連中が、仕事について熱く語り始め出した。時々、こちらに同意を求めるような牽制球が飛んできたが、適当に『そうですね…』と相槌を打って聞き流していたが、話の端々から『仕事のできるやつ』と囃し立てていたのはこいつらだったのだと、直感した。途端にだし巻き卵の味は何も感じなくなった。食事は何を食べるかではなく、誰と食べるかだと、何処かで聞いたことがあるなと思い出していた。
 面倒見の良い田代が僕に代わって盛り上がる先輩らにむかって、
「仕事を要領だけで片付けてると、今に痛い目に遭いますよ!」
と、冗談交じりに言い返していた。先輩の一人が迎撃態勢に入り、
「仕事は要領よくやんないとダメだんだよ!がむしゃらにやってると、しまいに消されちまうぞ!」と言っていた。
「なんなんすか、それ?消されるって?神隠しにでも遇うって言うんですかぁ?」
と、田代は笑ってその輪の中に入っていった。
 話し相手が取られたような淋しさを覚える中、向かいで静かに焼酎を飲んでいた先輩の大沢さんが、こちらを『チラッ』と覗き見ながら、独り占めしていた枝豆をつまみ、「なあ」と話しかけてきた。
 一番年輩である大沢さんは、普段から無口な人だった。自分から話をすることもなく、誰かと話しているところを見たこともなかった。その大沢さんが、さっきの『消される』という話について、聞いてもないのにぼそぼそと話し始めた。

 うちの会社にはとある噂話があるらしい。社畜のように働くエンジニアは今までにも6人いたそうだ。だけど、みんなある日を境にパタっと来なくなったらしい。そのまま行方不明になっていると言うのである。しかもそんなことがあったというのに、誰も何も言わないらしい。あたかもそんな人はそもそも存在すらしていなかったかのように、煙のように、いや、何かの匂いだったかのように消えるのだと言う。さずがに6人目がいなくなった時から、残された技術部のエンジニアたちは、適当に仕事をこなすようになった。手を抜いているわけではない。頑張らないのだ。僕以外の7人のエンジニアは、みな頑張らない。僕だけが3倍の仕事をしている。そういえば、入社して仕事を覚えて、1人で動けるようになってから僕は、頑張りだした。はじめのうち先輩方は、「そんなに頑張らなくてもいいよ」と優しく声をかけてくれていた。3か月も過ぎたころには誰も僕に話しかけることもなくなった。あたかも関わらないようにするかのように、避けられるようになった。
 大沢さんはさらに、
「時は金なりと言うことわざを知ってるかい?でもね、時は母なりって言うんだよ、本当は・・・。」
「え?どういうことですか?金より母親のように大切にしろっていうことですか?」
「ちょっと違うなぁ・・・。」
と言って、焼酎を一口煽った。その後いつになく渋い顔つきで、
「時間は、お金と同じように大切にしろって言うのが“時は金なり”だろう?その時間ってのはぁ、誰にでも平等にある。金も天下の回りものって言うように、お前のものでも他人様のものでもある。稼ぐお金もあれば、使うお金もある。でも母親ってのはこの世にたった一人しかいない。お前に与えられた時間も、たった一人しかいない母親のように、大切にしなくちゃぁいけない。その時間を無駄に使うような奴には、大切な時間なんて与えられなくなるよって言う意味だよ。消えたあいつらも、家庭を顧みずに仕事ばっかりやってやがった。お前も、奪われるぞ。時間を・・・。」
と一気に話し終えると、また、焼酎を煽り、飲み干した。

「俺は忠告したぞ」と、僕の顔を見て言い放ったあと、残念そうな顔をしながら、焼酎のおかわりを店員さんに告げていた。
注文を言い終わると同時に、
「どうせ、俺の話しすら誰も覚えてはいないけどね。あの6人もそうだったなあ。ああ、噂話だよ、これ。」と、半ば呆れたように微かに笑みを含んで聞こえるか聞こえないかというような声で呟いていた。詳しく聞かせてもうらおうと姿勢を糺したとき、トイレに行こうと立ち上がった3つ歳上の杉下さんが、
「お前、消されないように気をつけろよ。なぁ、仕事のできるエンジニアくん!」と、バカにしたようなものの言い方で僕の肩を軽く叩き、ジョッキのビールを一気に飲み干して、そのままトイレに行ってしまった。
 枝豆を口の中に弾き飛ばすように放り込んだ大沢さんが、また何やら呟いていたが、内容までは聞こえなかった。しかし、その口元が動いたのに気付き、『えっ?』という顔をすると、『残念だ・・・』と聞こえはしなかったが口の形はそう言っていた。目を閉じて、口を真一文字にしながら2、3度頷き、枝豆を喉の奥に流し込んだあと、「先に帰るわ」と言って、帰ってしまった。消えた6人の先輩にも忠告したはずの大沢さんは、その後、会社には来なかった。そのことを気にする人もいなかった。元々、大沢さんという先輩なんていなかったかのように。確かめようもなかった。誰も僕の話など、聞いてくれる人がいなくなっていた。僕すら存在していないかのように扱われ始めていた。

 その日を境に僕は、毎日に疲れを感じるようになった。
 仕事の他にもすべきことがあるのでは?もう少し、時間が欲しい。余裕が欲しい。もっと意味のあることに時間を使わなければ、いっそこのまま、あの噂通りに消えてしまおうか。仕事だけをしていて、生きている意味などあるのだろうか。と考えるようになっていた。いつも楽しそうな同僚たちの顔が浮かび、少しうらやましくもあった。
 それでも、身も心も疲れているはずなのに、仕事は楽しい。仕事をしている時は何も考えずにいられた。だから仕事が楽しいのだ。他に楽しみなんて知らないし、いらない。そう思えば思うほど、疲れは容赦なく襲い掛かってくる。
 明後日からの週末には、どこか旅行でもしてみようかと、初めて思っていた木曜の昼休みに、
「野原くん。明日から出張を頼めないか!?」
と、技術部の長田部長から打診された。
 作業内容を確認し、「わかりました!」と元気よく了承した。心の中で『出張先で少し休めるな。』と思っていた。他の人なら3日かかる作業だが、僕なら1日で終わらせられる仕事量だ。残りの2日間は有意義に使わせてもらおうと、頭の中で微笑んだ。

 特に観光地という訳でもない出張先での仕事は、予定通り1日で終わらせた。取引先の部長さんに挨拶を済ませた後、長田部長に報告をすると、
「予想通り1日で終わらせたね。予定では残り2日間あるから、作業していることにしてゆっくり休めばいいよ 。出張中ということにしておいてやるから。」
と、優しいお言葉をいただいた。
 『鼻からそのつもりです』とは声に出さず、部長の言葉に甘えて、取引先の会社を後にしてこの街をぶらぶらしてみようと、駅に向かって歩き出した。特に変わったお店がある訳でもなく、ブランコひとつしかないような公園が2カ所あっただけだった。駅に向かうなだらかな坂を下ったところで、『グリル・鐘の音』という洋食屋さんを見つけた。
 薄暗い照明の中で、赤と白のチェック柄のテーブルクロスが敷かれた丸いテーブルが3台だけ並んでいる、小ぢんまりとした昔ながらの洋食屋さんだった。少し懐かしい感じがした。メニューを見て、おすすめのハンバーグ定食を注文した。ハンバーグの味も懐かしい味だ。なぜか小学生の時に亡くなった母の思い出が蘇る。この匂いのせいだろうか。遠い記憶に直接語りかけてくる感じだった。
 店の奥にある本棚には店の雰囲気とは似合わない、たくさんのマンガ本が並んでいる。どれもこれも懐かしい。いくつか読んだことのあるマンガ。読みたかったマンガもあった。母に買ってほしいとおねだりしたが、買ってもらえなかったマンガもあった。
 何もかもが懐かしく感じられ、とても不思議な感覚を覚えた。実家に帰って来たような郷愁感と、自分が受け容れられているというような安心感が胸の奥から滾々と湧き出てくるようだった。

 心地よい安心感が自分自身を覆い尽くしたまま、さらに町中を歩いた。小さな用水路。春まで休ませて!と言わんばかりの何もない田んぼ。畦道。遠くにあると思っていた山並みが案外近くだったのだと気づくほど、緑が鮮やかに見える名もなき山。誰かが乗り捨てていった錆びた自転車。どれも懐かしく見たことがあるような風景だった。
 さらにしばらく歩くと、子供たちで賑わう駄菓子屋さんを見つけた。子供たちの中に分け入り、300円分の駄菓子を買い込んだ。子供のように喜んでいる自分に気づき少し恥ずかしくなったが、食べながらまた歩き始めた。
 米屋さん。酒屋さん。金物屋さん。ショーケースには一昔前の家電が展示されたままの電気屋さん。懐かしかった。ノスタルジーを感じながらも不思議なくらいにデジャブのようでもあった。心が和んでいくのがわかる。ちょうど暑い日差しに融けていくアイスクリームのように、固まっていた自分の心が他人事のように融けていく。
『もう、このままここにいようかな…。』
 あの日、買ってもらえなかったマンガを諦めたときのように、どれだけわがままを言っても、買ってもらえないものは買ってもらえないということを悟った時と同じで、『もう、いいよね・・・。』と、絶望を拒否し、現実を受け容れたのだと自分を騙して、心に整合性をとっていたあの頃の自分に似ていた。

 路地を抜けたところで、急に建物が増えた。新しくできた住宅街のようだ。軒並み同じような戸建てが並んでいたかと思うと、その屋根の向こう側に少し背の高い建物が見えた。マンションのようだ。
 7階建の白い建物の屋上部分に時計台が併設されている。さしずめこの町のシンボル的存在なのだろう。時計台は午後5時7分を指していた。西の空は少しずつ暮れ始め、東の空にはいつの間にか月が遠慮気味に顔を出していた。小腹も空いていた。昼過ぎに食べたハンバーグも、300円分の駄菓子もとっくに消化しているようだ。
 何か食べたいという食欲は、夕暮れの街並みが醸し出す更なるノスタルジーに火を点け、「おうちに帰りたい」という郷愁感を連れて来た。さらに、このままここに住んでしまおうか。もう会社に行くのもやめようか。もう働かなくてもいいんじゃないか。そもそも、生きている意味などあるのだろうか。といったマイナス思考もたくさん連れて来た。それほど疲れていたのだろうかと、もう一度、時計台の時計を見て、ふと我に返った。
 時計台の下の階──。7階部分に看板らしきものを見つけた。『旅の疲れを癒す場所』と書いてある。マンションなのに変だなと思いつつも、
「今の僕にはぴったりだ。まさに渡りに船だな。」
と呟きながら足取り軽く、そこに向かって歩き始めた。
 仕事以外に興味を示すものなど、社会人になってから全くなかったと思っていたが、『旅の疲れを癒す場所』という看板に興味を示している自分の変化に気付き、戸惑った。いつしか、『旅』という言葉を自分の中で『人生』という言葉に置き換えていた。そして、『癒されたいなぁ。』と声が漏れていた。

 マンションの入り口にまで辿り着いた。開けっぱなしだった透明のガラス扉を抜けて、エントランスからエレベーターホールに向かう。自分が来るのを待っていてくれていたかのように、扉を開けたままのエレベーターに乗り込む。看板があったと思われる7階のボタンを押す。ウォーンという機械音に合わせてエレベーターは上昇する。窓はあるが、見える景色はコンクリートの壁ばかりだった。
 通過する階を示すデジタル表示に視線が釘付けになった。全然、変わらない。昇っている感覚はあるが、階数表示は1階のまま変わらない。
「遅いエレベーターだなぁ。」
 時間を持て余すように、壁に貼ってある掲示板に目をやった。
『時は母なり』との見出しのついた、マンションの住人に向けた掲示板が気になった。掲示板のお知らせにしてはおかしな掲示物だった。と言うのも、意味不明な言葉が書かれていたからだ。
 ────今日までお疲れ様でした!
あなたは間違ってなんかいない。
人生は片道切符。後悔先に立たずだ。
さあ、時間旅行に出かけよう!
あなたのお望み通りに…。
「時は母なり。」──── 

 大沢さんの言葉を思い出していた。エレベーターは上昇している(はず)。相変わらず動きは遅い。いや、昇っているのか、動いているのか?
 エレベーターのデジタル表示は、ようやく3階を示した。そしてたった今、表示が4階に変わった。遅いだけできちんと動いていることに安堵した。その瞬間、異変に気がづいた。お線香の匂いがする。煙たい訳ではない。ただ、匂うだけだった。高校生の時、クラスの誰かが話していた怖い話の中で、峠をバイクで走っている途中、どこからともなく漂う線香の匂いに気付いた者はその後、交通事故で死ぬという話をしていたのを思い出した。
 匂いは記憶と直結すると聞いたことがある。どこか頭の中の遠くの方から懐かしい記憶が近づいてくる。目まぐるしく記憶が、押し寄せる波のように後から後から押し寄せてくる。
 母の死。初恋。そして失恋。友だちとの喧嘩。修学旅行。在校生に読み上げた卒業式での送辞。初めてできた彼女。そして、ファーストキス。突然、留学をすると言い出して振られた寒い雨の夜。社会人になって初めていただいたお給料。そのお金で買った腕時計。今も腕に巻かれていることに気付き、我に返る。時刻は午後5時29分。
 『これは走馬灯なのか!?僕はこのまま、死ぬのか?線香の匂いはそのフラグなのか!?』
 胸がドキドキと高鳴って行く。エレベーターの上昇とともに高まる心拍数。それでも、相変わらずエレベーターは遅い。それとは逆に早くなる心拍数。小さいながらも恐怖を覚え、5階のボタンも、6階のボタンも連打する。気が付けば全部のボタンを無作為に押しまくっていた。それでもおかまいなしにエレベーターは止まらない。額にうっすら汗が滲み出した時、デジタル表示は7階を示した!

 それでも7階に着いたはずのエレベーターは止まらない。まだ、昇り続けている。ウォーンと低く唸るモーター音。バクバクと破裂しそうな心音が聞こえてきそうな鼓動は、モーター音にも負けないくらい響いているようだった。7階建てじゃなかったのかと不安さから思考は混乱し出した。
 デジタル表示は7からRに変わった。その瞬間、「屋上があったのだ」と胸を撫で下ろす。ああ、時計台までエレベーターは昇るのか・・・と冷静に判断している自分に気付き、安堵した。
 静かにエレベーターは止まる。扉が開く。しんと静まりかえる辺りの空気感が痛い。足を踏み出そうとして咄嗟に引き返した。
 そこは、床も壁も屋根もない、天空だった。屋上どころの話ではない。視界に見えるものは限りない夕空だった。そのまま踏み出していれば、地上めがけて落下していたところだ。これは悪い夢だ。僕は疲れのあまり、悪夢を見ている。そう思うことにした。「僕は冷静だ。僕は落ち着いている。」声に出して、自分を落ち着かせようとした。冷静に考えようとした。
 工事中?まだ建設途中の建物?何かのアトラクション的な構造?天空に見えるようなトリックアート?どっきりテレビ?あらゆる疑問が浮かんでくる。だが、どれもあり得ないということしか答えはなかった。
 自身の心の整合性をとろうと、頭の中はぱちぱちとそろばんを弾くかのように計算され、整理し出した。弾き出された回答は、さっき感じた郷愁感から来た“諦めを許容してもいい”という安堵感だった。
 そこから、見下ろす町並みはすっかりと夕焼けに包まれていた。すべての建物が真っ黒な影になる。遠くの空と地上の境界線あたりに、もはや色を失くした夕陽が、真正面に見える。爽やかな風が僕の頬を撫でる。
 「ああ。終わるんだ。今日と言う日が終わるんだ。そして、明日が来ることは、もうないんだ。これで終われるんだ。」と、幸せな高揚感に包まれた。
 僕の頭の中のそろばんが弾きだした計算の答えは、すでに心の整合性を欠いていて、かつ完璧な状態だった。もう整合性をとる必要もない。そう思ったらやけに爽快な気分だった。
 『時間がほしい。余裕がほしい。』と思ったあの時の願いが叶った。そう思えた。さっきまで爆発しそうだった心拍は平然としていた。なんて、安らかな気持ちなんだと、僕は泣いていた。頬を撫でる風は、懐かしい母の温もりを帯びていて、とても温かく、とても優しかった。
 何も考えなくてもいいことが、こんなにも頼りないのに、こんなにも満たされているなんて思いもしなかった。開け放たれたエレベーターの中に、優しい風が満ち溢れていた。
 やがて音もなく扉が閉まる。そして、エレベーターは下降を始めた。

 デジタル表示は再び7階を示す。扉が再び開く。だがそこは、昇るときに見ていたようなコンクリートの壁に囲まれた空間だった。まだ工事中なのだろうか?エレベーターから降りてみる。真っ暗だと思われたその空間の先に大きな機械のようなものが見えた。時計台の裏側だ。大きな歯車がゆっくりと動いている。
 時計台は屋上だと思っていたが7階だったのかと考えることもせず、この理屈に合わない状況を疑うことすら憚れて、容易く受け容れていた。
 その空間の暗さに目が慣れてきたとき、左側に小さな棚が設けられているのに気づいた。そこには花束が6つ供えられていた。その下に革靴が6足。綺麗に並べられていた。その奇妙な光景すら容易く受け容れていた。6つの花束と6足の革靴の意味も受け容れていた。そこに何の疑いも、不思議もなかった。『ああ、僕が7人目なんだ・・・。』
 大きな歯車に噛み合う大小さまざまな歯車の隣に、小さな扉をひとつ見つけた。吸い寄せられるように扉に向かって歩いて行く。扉の隙間から明るい光が溢れ出ていた。右手でドアノブを回し、引いてみる。溢れ出ていた光は力強く僕の体を包み込み、ドアの向こうへと引き寄せた。僕の体は宙に浮かび、優しく光に包まれながらその光に融けていく。さっき見た夕焼けの街並み。マジックアワーの薄明の中に僕の体が、僕の意識が融けていく。
 
 時間の一部になれる!
 
 薄れゆく意識の中で、恍惚としたこの感情を懐かしいと感じ、僕は泣いていた。それは母親の胎内にいた時に感じていたはずの安心感。何も怖いものはない。何にも恐れなくてもいい。楽しまなくても、苦しまなくても、悲しまなくても、何もしなくてもいい。何も感じなくてもいい。何もなかったことにしてもいい。
 薄れゆく意識は、文字通り魔法のような時間に融けていった。

 職場では、いつもと何も変わらない時間が流れている。
『エンジニアの1人が会社に来なくなったらしい』との噂が流れた。
だが、誰もそのエンジニアの1人が、僕だったとは言わない。どこかの誰かがいなくなっただけのこととして、それが誰だったのかさえ、話されることもなかった。不思議に思う者もなかった。
 面倒見の良かった田代さえも、僕の存在なんてはじめからなかったかのように、その噂に対して、「ああ、そうなんだ。」と無関心な様子である。
 1人のエンジニアの失踪は、噂話のレベルだとして誰も信じなかった上に、誰も疑わなかった。噂話は噂話のレベルのままで、誰も関心を持たないままだ。
 ただ大沢さんだけが、「残念だ・・・。でも忠告はしたよ。」と、誇らしげに呟いていた。その声を聞いた者は誰もいない。大沢さんの存在に気付いた者すらいなかった。

 その後、田代は以前と何も変わらない様子で忙しい時間の中を泳いでいた。そして、仕事を楽しみながらも、何かを失くしてしまったような錯覚に囚われながら、毎日に虚無感を感じるようになっていた。
 ある日、「疲れたなぁ」と呟いたその日の帰りの電車の窓から、遠くの方で夕焼けに包まれた時計台を見つけた。
「あんな所に時計台なんてあったかなぁ?」
と思ったその時、『お前は来ちゃダメだよ。』と耳元で、誰かが囁いた気がした。ふと我に返り、電車の中を見回す。さっきまで目の前にいた高校生が、ぱたんと本を閉じて、リュックの中に放り込み、ドアの近くへ移動して行った。閉じた本の表紙には、『時は母なり。』と書いてあったのが、残像のように記憶に残り、なぜか気にかかって仕方がなかった。次の駅で降りた高校生の後を追うように、衝動的に田代もその駅で降りた。
 いつもと同じ帰りの電車のはずなのに、降りた駅には見覚えがなかった。
高校生はすでに去ったようで、見つけることはできなかった。
 
 知らない駅を降りて、知らない町を歩く。そして、電車の中から見つけたあの時計台を探して歩いた。どこか見覚えのある街並みに、懐かしさを感じながら、いつしか夢中になっていた。
 夕方の街並みからは、いろんな匂いが漂ってくる。魚を焼く匂い。焼肉屋さんの匂い。カレーの匂いもあった。疲れた体は、おいしい食事を欲し始めていた。何か食べたいなと思ったとたん、なだらかな登り坂を登りきったところに『グリル・鐘の音』という洋食屋さんを見つけた。吸い込まれるように中に入ると、厨房で大沢さんに似たシェフがいた。
 「お前は帰れ。まだ、早い!」と、こちらに向かって伝えようとしていたが、田代にはそれが見えなかった。

 懐かしい味のするハンバーグでお腹を満たした田代は、母親のことを思い出していた。携帯電話を取り出し電話をかける。
「あ、お母さん。今週末、そっちに帰るよ。」
「忙しいんだから、無理しなくていいよ。」
「うん、ありがとう。でも、時は母なりって言うでしょ?」
「何それ?“時は金なり”じゃなかったっけ?」

田代は、夕焼けに包まれた時計台の前を後にした。

                         ─── 完 ───

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?