妻に去られた男が娘にも去られた話 第4話

 中庭の賑わいを他人事のように聞き流しながら、ダユーはドゥーべサーに髪を梳かせていた。主の機嫌がよくないので表には出せなかったが、年若い侍女には主に従って華やかな王城の地へ赴くことが嬉しくてならなかった。生まれ育った地を離れることに対する想いを主従は共有していなかった。ドゥーべサーは主の御気色を損ねぬよう浮かれた気分を抑えているつもりでいたが、疾うに彼女の気分は主の気分を害していた。そうと気づかぬドゥーべサーは、心の中で鼻歌を歌いながら主の豊かな黒髪を飾る細帯を手に取った。それを鏡で見ていたダユーはここぞとばかりに浮かれた侍女を叱責した。
「待ちゃ。何ゆえそれを手にした」
 思いのほか厳しい主の声に、ドゥーべさーの浮かれた気分は一瞬にして消し飛んだ。替わって保身が心を支配する。
「…これは、姫さまが祭事の折などにお付け遊ばす、その、お気に召しておいでの…」
「黙りゃ。林檎の細帯にせよと申したであろう。忘れたか」
 侍女のしどろもどろの言い訳が、さらにダユーを苛立たせる。
「いえ、その、しかしながら…」
「しかしながら、如何した」
 容赦のない主の言葉に恐れをなしたドゥーべサーは、深く膝を折ってか細い声で答える。
「林檎の細帯は刺しかけのお品にて…」
「それが如何した。なんぞ不具合でもあると申すのか。あの細帯はこの身を産み給うた母上が御手づから刺しておいでになった品ぞ。わが産土の地を離れるこの時、母上のご加護を願わずしてなんとする」
 言い募るうちにダユーの怒りと悲しみは抑え難いものとなっていった。上目遣いに主の様子を盗み見たドゥーべさーの目に、忿怒の相をあらわにした大蛇が映った。驚愕のあまり腰を抜かして言葉も出ない無様な様子の侍女に、ダユーが冷ややかに言い放つ。
「出立の刻限が迫っておる。わかっていような」
 まもなくダユーの母譲りの黒髪に、赤く熟れた林檎がたわわに実をつけた。


 春爛漫の晴れ渡る空の下、領主の館から貢女の一行が皇帝の目下の後座所である王城を目指して出立した。ゆるやかに湾曲した下り坂に蹄の音を響かせながら、騎馬の衛兵が領主の紋章を描いた旗を掲げて先頭を進む。衛兵の隊列の後、領主父娘、侍女たちの後には馬子に牽かれた荷駄の列が続く。長持の覆いにも領主の紋章は描かれている。領主館下の集落の家々の門口には、豊穣を司る地母神の依代となる柳の枝が立てられ、山査子や野茨など季節の花で飾られていた。作物のすこやかな成長と稔りを予祝する祭の最中に、ダユーは生まれ故郷を旅立ってゆく。領民たちは、軒の低い藁葺き屋根の家の前で領主の姫君を見送った。彼らのほとんどが、目の前を過ぎてゆく麗しき姫君こそが豊穣の女神であるという想いを抱いていた。女神は華やかな作りの鞍に乗り、彼らを祝福するかのように通り過ぎてゆく。
 館の物見の塔では、領主夫人のケバンが満足そうに一行を見送っていた。連銭葦毛に乗った継娘の前には栗毛に乗った夫がいる。夫は領地の端まで愛娘を送ってゆくのだ。永の別れになるのだからせいぜい別れを惜しませてやろうと思う妻は、己の心の広さに少なからず気を良くしていた。彼女の心そのもののような晴れた空の彼方には、彼女がまだ気づいていない小さな黒い点が生じていた。
 家の戸口で姫君を見送っている母に抱かれた幼女が空を見上げ、黒点に気づく。「あれ」と指差し母の気を引こうとしたが、姫君に釘付けの母の気を引くことはできない。その間にも黒点は静かにその大きさを増してゆく。幼女の近くにいた少年が気づいた時には、それはすでに点ではなくなっていた。
 にわかに空を見上げる者が増えてきた。物見の塔の上にいる領主夫人も、侍女も衛士も空を見上げた。騎馬の兵も馬子も、領主もその娘も、驢馬に乗った年若い粗忽者の侍女も、みな空を見上げた。黒い影が疾風と共に頭上を掠める。一行は目を閉じ手をかざし、風圧から身を守るように軀を傾ける。彼らが再び空を見上げた時には、黒い影は驚くべき速さで北の空へ飛び去っていた。
 若い女の悲鳴が上がった。驢馬に乗った侍女が頬を両手で押さえながら叫ぶ。「姫さま、姫さまのお姿がありませぬ」
 ダユーの前にいた者たちが一斉に振り向く。若い娘にふさわしい色染めの革を縫い合わせて作られた鞍の上に、ダユーの姿はなかった。一行も領民たちも起こったことに理解が及ばず、まともに身動きを取ることができない。時が経つにつれ、さざ波のように囁き交わす声が広がってゆく。皆が皆、己が何をするべきか判断しかねている。
 消えた娘の父が馬を降り、路上に片膝を突いて林檎を刺繍した細帯を拾い上げた。黒い影にさらわれた時、娘の髪から落ちたものだ。しかし、彼エベルには細帯がそこにあることの意味を理解することができた。細帯は風の勢いでただ落ちたのではなく、彼の許を去った者たちが形見に残していったものだということを。
 彼は真紅の糸で盛り上げた林檎のひとつに触れてみる。その手触りは、かつて常世の国でタルティウに差し出された林檎の手触りにほかならなかった。


 深い霧の中でダユーは温かな母の胸に抱かれ、求め続けていた至福の時を過ごしていた。そこには生も死もなく、彼女は人の世に生まれる前にいた場所に戻りつつあった。薄れてゆく意識の中で母に訊ねる。
「母上はなにゆえ私をお産みあそばしたのでしょうか」
 母の声は、ダユーの心とも肉体ともつかぬものの中に温かな乳のように染み入ってきた。
「我らはこの世の始まりとともにあるもの。人は本来我らの子。されど人はそれを忘れてしまった。それを思い出させるためじゃ。しかし思い出せぬ者があまりに多いゆえ、そなたを連れ帰ることにした」
 母の言葉がダユーのすべてに甘やかに染みわたるにつれ、ダユーと母の境は失われて、その意識は静かに消滅した。


 潮風に乗って波打ち際に降り立ったタルティウは、暖かな陽射しの中で軀を振るわせる。日の光に燦く翼の羽根の一枚一枚に、彼女の息遣いに従って微妙な陰翳が生じる。精妙な色合いの中には、時として祖母の、母の、娘の顔が浮かび上がる。彼女の翼の七色に輝く碧い羽根は、鳥となって空へ飛び去ってゆき、下肢の七色に輝く碧い鱗は魚となって海へ泳ぎ去ってゆく。肌に心地よい浜辺の砂を踏みしめながら、祖母のようでもあり、母のようでもあり、娘のようでもある女が丘へと歩いてゆく。緑芳しい丘の上から女たちが姿を現す。いずれの女も祖母のようでもあり、母のようでもあり、娘のようでもあった。女たちは、空と海の交わる地で風と共に消えていった。


 耕した畑土に穀物の種が播かれてゆく。豆や亜麻の種も播かれる。潮風に吹かれる放牧地では羊が草たちを食み、開墾地に放された豚たちは、秋の森が堅果を降らせるまでは鼻で地面を掘り起こし、虫や根茎を食べている。
 農繁期を迎えた領地は生命の息吹に沸き返っていた。忙しくも活力に満ちたこの時期には揉め事も多い。当事者の間で決着をつけられなかった案件は、領主の許へ持ち込まれる。エベルは領主として彼らの訴えに適切な裁定を下し、領民の困りごとに耳を傾けるために定期的に領内を巡回する。
 ケバンは領主夫人として館の内に君臨し、彼女に与えられている権限を行使していた。この時期は、侍女や下女たちに刈り取った羊の毛を紡がせ機を織らせる。彼女自身もまた杼を手にした。
 開墾作業の監督官と鍛治職人の間で起こった鋤の品質と対価に関する訴訟を裁いた後、エベルはわずかな暇があることに気づいた。この恩寵とも言えるひと時を、彼は礼拝堂で過ごすことにした。午後の陽射しが暖かに差し込む堂内で、安置された聖母子像にぬかづく。顔を上げ、像の顔を見る。聖祖母はタルティウ、タルティウの膝に座る聖母はダユー、ダユーの腕に抱かれた御子神はエベル自身であった。少なくともエベルの目にはそう映った。
 腰帯に吊るした巾着の中からタルティウとダユーの形見の細帯を取り出す。虹色に輝く碧い生地の上で瑞々しい林檎が甘い香りを放っている。細帯を握りしめてエベルは外に出た。
 幼い子供たちの楽しげな悲鳴が上がる。ミリャとエスナッドがはしゃぎながら走り去ってゆく。兄妹を燕が追っている。恐らく二人は燕の親が雛たちに餌を与えるのを長く見過ぎ、親鳥を怒らせたのであろう。
 エベルは子供たちが走り去るのを笑顔で見送ると、近くの林檎の樹を見上げた。花の散った枝のそこかしこに小さな実が育っている。常世の女は至るところで彼を見守っていた。エベルは大切な細帯を巾着に仕舞うと、碧空の下を館のほうへ歩いていった。
 ちなみに、ダユー失踪の報に接する前に、唐突に皇帝は世を去った。傍目には壮健に見えてはいたが、彼の内側では年相応の老いが着実に進行していたということであろう。彼のために盛大な葬儀が営まれ、壮麗な陵墓が造営されたが、その冥福を心から祈った者がいたかどうかは定かではない。

(完)

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