身体の記憶

 認知症(当時は“痴呆症”と呼ばれていた)デイケアで介護スタッフとして働いていたときに、「身体の記憶」について考えさせられたことがある。
 その前にひとつ、呼称が変わり、世間一般の見方もずいぶん変化してきてはいるものの、まだある偏見を解いておきたい。「ボケてしまえば何もわからなくなってかえって幸せだよ」「大変なのは周りの人間さ」という言い方は大いなる誤解だ。認知症という病を外側からでしか見ていない発言である。
 ちょっと想像して欲しい。今日が何月何日で、いまいる場所がどこで、隣にいる人が誰なのかについて、皆目見当がつかないとしたらどうだろう。そう、誰だってパニックに陥るはず。決して何もわからず「平然」としているわけではない。そして、発症する前とは異なっても、やはり、他者と関係を結ぶために信号を送ってくれているのだ。
 症状が進むと、もはや通常の会話は成り立たない。語彙そのものの数が極端に減り、こちらがある程度予測しなくては真意がつかめない。また、まるでそこに相手がいるかのように独り言が続いたり、言葉というより音を発しているに過ぎない状態だったりと様々である。
 それに比べ、身体の記憶というのは言葉より衰えていないことが往々にしてあるということを知った。「痛い」という言葉を発することが出来ない人でも痛いという表情をしたり、歌を歌えない人でもリズムに合わせて手を叩いたり、カラダを揺らしてみたり、過去の記憶が身体を目覚めさせているようにみえた。
 若年性アルツハイマーを患い、トイレや食事の介助が必要で発語もほとんどなかった人が、ティッシュペーパーを一枚一枚丁寧に抜き取り折りたたんでいく様子に目をみはった。そして手ごろな大きさの箱を見つけ、その折りたたんだティッシュペーパーを中に入れ、小脇に抱えて大切そうに持ち運ぶ。仕事一筋の営業マンだった彼のその動作に、介護者として働きはじめたころの私は感じ入った。
 そして、そのときから遡ること十数年前に他界した祖母について思いを馳せてみた。
 数えで17の年に、顔も見たことのない祖父との親が決めた結婚のため、朝鮮半島から海を渡ってきた祖母は、何十年と日本語を使って暮らしていたが、認知症を発症してからは朝鮮語しか話さなくなり、そして最後にはその言葉も手放してしまっていた。
 あるとき、家に遊びに来た父の知り合いが、あやとりを祖母にしむけた。そんなこと出来るわけがないと父がそばで見ていると、祖母は面白くなさそうな表情で、それに応じ、なんと五手までやってのけ、その知人を負かせたという。父には7つ下の妹がいたが、こどものころ、家であやとりをやっていたという記憶はまったくなかったらしい。夫を早く亡くし、いまでいうシングルマザーとして身を粉にして働き通しだった母親にも少女時代があったのだと、身体で自分に語ってくれたように思うと父は言った。
 その祖母は最後は認知症患者専門の病院で息をひきとった。私が見舞ったときはすでにベッドで一日の大半を過ごす状態だった。目もうつろで私が誰だかもわからないようだったが、外出して半日一緒にいたあとで、「おばあちゃん、元気でね。また来るからね」と手を握ると、枯れ枝のような細い小さな手で力いっぱい私の手を握り返してくれた。目もしっかりとこちらを見ていた。
 身体が応えてくれることもあるのだと思った。
 ガンの進行が早く、30代半ばで逝ってしまった友の表現は、ゆび相撲だった。
 さて、私が言葉をなくし、身体で愛を伝えるとき、いったいどんな信号を送るのだろう。そして、それをうけとめてくれる誰かがそばにいてくれることを切に願う。

 

 

 

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