「聞く耳を磨く」ことに耳を傾ける

 noteに駄文を書き連ねてはや3か月。書く内容がとっちらかっているので、種類分けというか、見やすくまとめたい気持ちがありながら、怠惰を理由に、また、あとで文章を精査して消去するかもしれないという理由で、棚上げにしている。そこに、もうひとつ理由があって、もしかしたらそれがためというのが一番なのかもしれないのだが、分類したらしたで、今度はそれに合わせた文章を書いてしまうようになるのではないかと危惧する。
 逆説的にいうと、分類しないおかげで、前に書いたことから派生して、それに連なる考えが頭を出しはじめたら、躊躇なく、そのことを書いてみようと次のステップにいける。勢いが生まれる、ように思うのです。
 ああ、まどろっこい。まあ、でも、それこそがnoteに綴る意味に通じるのでよしとしたい。

 以前書いた「聞く耳を磨く」ことを意識するできごとがあった。

 ある人の講演会へ行った。社会的弱者のために闘い、東奔西走しているその仕事ぶりに注目し、直に会い、誠実な人柄に魅了されてもいる。ずばっと核心を突くもの言いに拍手喝采し、抑圧されてきた当事者に寄り添う実体験の話は深くて重い。
 それがどうしたことだろう、今回、なんとも心許ない講演に正直がっかりして帰宅した。

 元来サービス業と舞台に立つ人にはつい手厳しくなってしまう。自分ならもう少し気をきかせ配慮するだろうし、準備を怠らないだろうと、傲慢ともとれる思いがあり、どうしてもプレイヤーの立場で見てしまう。とくに人前で「話す」ことに関しては、芸人であれ学者であれ、活動家であれ、手を抜いてもらいたくない。日本ではとくに「書く」表現に比べて「話す」表現は格下に見られるきらいがあるので尚更だ。

 主催者側にも問題がある場合が多い。肩書きや名前だけで依頼する。行政が開催するともなれば、たいがい無料かそれに近い入場料しか設定しないので、不満があっても来場者からの声はあがりにくい。講師に支払われる報酬も公的な負担で、自分の懐が痛むわけではない。また消化試合のように組まれる会も少なくない。よしんば、手弁当で催した集まりでも、たとえば著作が良いのだから話す内容もそうに違いないと、講師の「話す」場に足を運んだこともなく決めてしまう。“先生”に意見するなんて不遜なことだと思うのか、「思ったことをお話しください」などと事前の打ち合わせもなーなーで終わらせる。そうした会はいずれ淘汰されるので放っておけばいいと思えればいいのだけれど、「もっとちゃんとやろうぜ」とひとり息巻いてしまう。
 今回も、ほかの人にとっては「いい話」だったと満足したかもしれないので、重箱の隅をつつくことはしたくない。だが……。

 ということでは落ち着かない異様さがあったので、時間を置いて振り返って考えてみた。

 くっきりはっきり主張するような箇所で、なんども、「……あ、いや、これはまとまっていないので、やっぱりやめます」とか、「これは、うん、違うな、今回言うことではないな……」とか、「いま、ふと思ったことを話してしまったので、うーん……いや、すみません、今日は『用意した』ことだけを話します……」とか、ひとりごとのような呟きを繰り返し、レジュメに書かれたことが骨抜きになってしまった感が否めなかった。講師の話をはじめて聞く人や、その社会問題について漠然としか知らない人は、まったくなんのことだか真意を測りかねただろう。
 私のように以前の講演に感銘を受けたり、書物などから少しは勉強してきた経緯があると、「……」と逡巡している言葉を脳内で補足して聞くことが出来る。ただ、やはりそれにしても、聴衆に不親切ではないかと思ってしまう。

 そこで、「聞く耳を磨く」と題してnoteに書いたと前述したように、日本語では聞く側の能力がより必要とされるということに思い巡らせ、はっとした。

 闘いの最前線に立つ人の周囲からの重圧はいかほどかと。白黒はっきりさせることであらゆる方向から矢が飛んでくる、そのことに疲れたとして誰が責められるだろう。敵は自分自身のなかにも存在するとか、ものごとには二面性があってとか、もっともなことに変換して語尾を言いよどむ……ことへの逃げ道さえふさいでしまう権限が、いったい誰にあるというのだろう。
 つまり壇上にあがらず、下から見上げる位置から「上から目線」で言い放つあなたって何者? そう私自身に問いかけた。
 しかし、かといって、そうだよね、それも処世術だよねと一緒に言葉を呑み込むことが「聞き手」に求められているのであろうか。否。
 よりよく「聞く」ということは、話者が発していないことを想像するだけに及ばず、やはり、それを言葉にすることを促し、そうできる、話者が信頼を置ける場を作ることではないだろうか。賛同するも、疑問を持つも、そのあとに来る。
 
 となるとこれまた、前回書いた、「聞く力」は、「しゃべらせる力」とイコールになりはしないか。

 ああ、まだまだ、まどろっこい。

 引き続き考えてみたい。

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