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ぼくだってさみしいときがある。

僕はセクシュアルマイノリティの当事者。
生まれの性別は女性。でも、身体は受け入れられない。かといって男性になりたいわけではない。カテゴライズするならXジェンダー。

僕は、仲間に支えられながら、セクシュアリティに関してもだいぶんとオープンになれた。オープンになってからのほうが、好きな格好ができるし、好きな髪型でいれた。名乗りたい名前で名乗って、一人称もすきなようにできた。この年齢で、ぼくは仲間に出会えて、いろいろな学びもできている。

でも僕だってさみしいときがある。セクシュアリティでつらくなるときもある。僕は銭湯や温泉など、大浴場に入れない。(我慢したら、はいれるのだろうけど、気が気じゃない。)僕の友人たちは、「入れないねん」っていったら僕のことをわかってくれてるから、「OKー!」って軽やかに答えてくれる。僕はその軽やかさに救われている。けど、やっぱり、みんなといっしょに居たい気持ちはある。みんなとお風呂に入れたらたのしいだろうなぁと思う。

そんなことを思いながらみんながお風呂からあがるのを待ってたら、やっぱりさみしいもんだ。
言い出したらたくさんある。
マッサージに行けない。服をぬげない。
トイレに並ぶことがこわい。
岩盤浴にいきたいし、サウナにも入りたい。
昔はなんだかんだしていたことも、はっきり「いや」「こわい」と意識するようになったりして、それはそれで、自分を大切にできているという意味もあるから、、、。

でも、
周りに大切な人が増えれば増えるほど、ぼくはその輪に含まれたいと願う。
だから寂しいんだろうなぁ。大切な人が増えたから寂しさが増すときもあるんだなと思った。

セクマイに限らず、マイノリティ性を通して、困難や孤独を抱えた人はたくさんいる。その痛みをないことにせず、ごまかさず、痛みを痛みとして、ぼくは声を聴きたい。
まずは自分の声を、何度も聴きたいと思う。

自分の痛みを知ることは、人の痛みを知ること

そう教えてもらった、
痛むことがぼくのギフトなのかもしれない。
痛みながらも、自分たちのパワーに開かれていこう。

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