何故アンチワーク哲学に沼るのか?
なんでアンチワーク哲学にこんなに嵌っているのか?
私にもわからないので解体しようと思う。
無職の自分、働けない自分を肯定したい
これはありそうだ。
しかし、それなら既存の哲学やら、宗教やらでいくらでも賄えるのでは無いだろうか。
実際、私は色々その辺の本やら動画やら見ているし、読んでいる。
そして少なからず影響を受けている。
アンチワーク哲学とて、無から生まれた訳では無い。
言ってしまえば、過去の偉人、名もなき人達の知識の集合体の一つとして生まれたものである。
しかも、荒削りだ。
そもそも理想とする世界は、実現していないのだから。
なれば、外側の価値観を破壊する事を望むアンチワーク哲学より、自分の中身を変えるストア派哲学とかの方が余程あっている。
極端に言えばそのままの自己を受容すればよいのだから。
受け止め方を変えるのだ。
では、逆にその破壊性に価値を見出しているのか?
社会、労働への恨み
アンチワーク哲学を世の中の人間たちが受け止めるとすれば、人々の価値観が変わることで、既存の社会の仕組みを抜本から変え、意味の無い環境破壊にしかならないクソ労働が消える。最終的には、生活様式までも変わるだろう。
一種のテロだ。ペンは剣より強し。現代においては暴力より狂気的だ。
私を鬱にしたこの社会の仕組みやクソ労働を破壊する事で恨みを晴らそうとしているのかも。
私の何処に行きようもない怒りの矛先としての受け皿であるのかも知れない。
一種のアートなのか?
既存の価値観に疑問を投げかけたり、批判したり、政治や宗教に微妙にわかりにくく文句つけたりするのはアートでもある。
皮肉とユーモアがないと痛いだけになるのが難しいところだ。
私はその辺はあんまりやらない。
痛くなる自信があるからだ。時事問題とか興味ないし。やって無くても痛いからあんま変わんないか?
私はこんなにふざけているが、実は純粋芸術よりの制作をやってたりするのだ。
きちんとした美術教育を受けずに来たやつが古典絵画技法で絵を描くのってなんか面白いでしょ?かわいい抵抗だよ。もっと技術力が上がれば良くなるんだけど。
話がそれた。すぐ自分の話する。いや、元々自分語りだったわ。
私は、アンチワーク哲学を普及させてやろうという営みそのものがアート性を帯びていると思う。
提唱しているネーモさんはその辺も加味した上で活動しているのでは無いかと思っている。知らんけど。
私はその辺りが好きなのだと思う。
だから、べーシックインカムという、一つの手段の部分にアンチワーク哲学が回収されていくのが見ていてムカつくのだと思う。
私はそこに噛みつき過ぎである。自覚がある。
恐らく、そうなってしまえば、ただの政策としての社会実験的な話になり、既存の価値観ごとぶっ壊すという破壊性が失われる。
それを恐れているのだ。
私は私の好きなものが、好きなものでなくなってしまうのが怖い。
だから、めっちゃ噛みつくのかも。
もはや提唱しているホモ・ネーモさんに直接言うくらいである。
原作者に凸るオタクみたいな厄介さだ。嫌なやつだな。
シンプルにホモ・ネーモが好き
色恋みたいな意味じゃない。
人間として好きだと思う。
現実であった事は無いが、既にお友達みたいな気持ちである。
何度かやり取りして、既に対談までしているのだ。
めっちゃ好きに決まってんだろ。
これはでかい。
作品と作者は別物であるという説もある。
話したらがっかり!なんてこともあり得るのだ。
そういう意味では、全然ズレがなかった。
いい意味で色んな驚きがあって面白かった部分もあり、それでもイメージを破壊するほどではない。
私は作品と人間性が乖離しているので、正反対である。
そこが好きなのかも知れない。
自分に無いものを求めた結果行きついたとか?私ってホモ・ネーモに成りたいのか?怖。
コミュニティが面白い
これは思ってもみなかった。
というか、最初は人数も少なかったので、こんなに拡大するとは思ってなかった。
今は結構な人数いる。もはや追えてない。
もっといろんなやつを発掘できるに違いない。
そういう意味でもまとも書房には頑張ってもらいたい。
おもしろ人間にはおもしろ人間が集まるもので、ホモ・ネーモの周りに寄ってきたおもしろ人間と知り合えた。大収穫。
ホモ・ネーモとはどんなやつなのか、出版ってどんな流れなのか、そんな感じの興味で入った所、色んな人間が見れて面白くなってしまったのだ。
ネーモさんのつくったコミュニティなので、ネーモさんとはあわよくば仲良くなりたいな!チラッチラッ!という感じはあった。
みんなそうじゃないのかと思ってたが、そうでもないみたい。色んな理由で集まっててそれも面白い。
私は、ネーモさんとお近づきになるぜ!が成就された結果、原作者に凸るオタクみたいなものになってしまった訳だが。
暇だから
これは、前提としてある。
暇じゃなかったら哲学などやってない。
そもそも、学ぶこと自体が昔は特権階級だけのものだったのだ。
今は技術進歩と嘗て闘った人間たちの屍の上に我々まで学べる環境が整ったのである。
それだけは素直に感謝したい。
現在も明日もしれぬ人々が哲学する暇も気力も実質的にない。
私もうつ強かった時はそもそも文字を読めなかったので、本を読むのとか無理だった。
余裕が出てきた今やっとできることなのである。
暇というと聞こえが悪い気がするが、余暇、余裕、それらは生きる上で無いと視野狭窄に陥り自爆することになる。
発達傾向と此等が合わさると簡単に精神疾患を発動させる事ができる。
人間は暇じゃないと物事を考え直すことも出来ないのだ。
そういう意味では、労働者に何かしら無意味なことをさせ続けて、余暇をなくして思考力を失わせて永遠に働き続ける歯車にする仕組みは良く出来ている。
その虚構で得をするのは誰なんだろうね。
仕組みが複雑過ぎて最早わからないのだか、我々でないのは確かだ。
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