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私と脊椎と愛と

脊椎、背骨、spine、それは私にとってけして欠かすことのできない、完璧で究極のパートナーです。

#私のパートナー
様々な人がこのハッシュタグを使って自分の「パートナー」のエピソードや考え方を披露していると思います。
が!!誰一人として、私と脊椎の絆には到底及ばないでしょう。
パートナー、、、「partner」それはすなわち、a part of me、、、私の一部分。
よいパートナーシップのあり方とは、いかに自身が相手の一部で居られるか、いかに相手が自身の一部であるかによって決まってくると思います。
親愛や絆は二者間を「繋ぐ」という考えが間違っているのです。

「あなたは私のかけがえのない一部。願わくば、あなたにとって私もそうでありたい」

これこそが「パートナー」ですよ!!わかりますか!?



それを踏まえて、私と脊椎のパートナーシップについて分析していきましょう。


まず、当然のことながら、脊椎は、紛れもなく私の一部分であると断言できます。
物理的に私の身体を構成している器官のひとつなのですから。これを「一部」でなくてなんとする!
よって、、、脊椎は私の一部。

では、逆はどうでしょう?、、、脊椎にとって私は?
勿論、私は脊椎の一部、、、いや、むしろ全部であると言えます。
前述した通り、脊椎は「私」という人間を構成する一部分であるわけですから、その存在は「私」に内包されています。脊椎の存在は根本的かつ全面的に私に依存しているのです。
私の脊椎もそう言ってました。

私と脊椎は「パートナー」であるための条件は備えていることがわかりました。


では、次はその親愛と絆の深さ、、、すなわち、相手が自身にとってどれだけかけがえのない存在か、ということです。

「脊椎にとっての私」については上記の通り、脊椎はその存在を根本的かつ全面的に私に依存してるので、脊椎は私なしでは存在すらままならないです。

それでは、逆を考えてみましょう。私にとって脊椎はどれだけかけがえのない存在なのか。
例えば、今この瞬間に私の脊椎が何らかの理由により、私を見限って、私の体から出て行ってしまったとしたら?
、、、、、、私は、死にます。
死ぬ、、、恐ろしいことです。脊椎に愛想をつかれてしまうと、私の命もなにもかもが終わりになってしまうのです。

これでわかりましたね。
脊椎は己の存在そのものを、私は命の手綱を互いに握っているのです。
絶対的にかけがえのない存在です。
これに勝てるパートナーたちなんて果たして存在するのでしょうか?

例えば今読んでいるあなたの「パートナー」が明日死んだとしましょう。
あなたはどうなりますか?死にますか?
コレを読んでいる方々で、パートナーの消失が自身の死のきっかけになりえる人が、一体どれだけいるでしょうか。
おそらくはほとんど居ないと思います。



さて、彼氏彼女パートナー(笑)との惚気話を書いて気持ちよくなるはずだった有象無象の方々の真っ赤な顔が目に浮かびます。
でも別に私はリア充を否定したいわけではありません。爆発してほしいなとは思いますが。
ですのでこんな仕打ちはあまりに可愛そうだなと思ったのであります。良心の呵責というやつでしょうか。
恋愛勝ち組人生勝ち組、、、だと思っていたのにまさか自分の脊椎をパートナーにしているやつに反論できないとあってはパートナーとの絆にもヒビが入りかねない。私としてはそれもまた一興なのですが。
まぁ、何にせよ、可哀想なので皆様に私と脊椎のパートナーシップの欠点足り得る要素をお教えします。

それはずばり、、、愛です。
愛。それこそが私と脊椎に欠けている要素です。
私と脊椎は、残念ながら愛し合っているとは言えないのです。もちろん、それは、私の「愛」の定義の上での話なのですが。
私は、愛とは「前提として無償でありかつその他の何よりも優先される他者への正の感情」だと思っています。
簡単にいうなら、利己的な部分が一切ない相手への親愛、ということです。
「幸せならそれでオッケーです」の精神性を突き詰めただと思います。
相手が幸せなら、自分はどうなってもいいと断言できる感情。
もちろんそのような精神性に至ることは簡単なことではありません。ですが、愛とはそういうものでなければならないと思います。だからこそ美しいのだと思います。

ですが私は、そのような感情を脊椎に抱いたことが、、、ないです。
好きなんですけどね、脊椎。でも何よりも好きとは思わない。
私と脊椎の関係は言わば、究極の共依存です。互いがなくては立ち行かない程に依存しきっている、けれどもそれは相手を愛しているからではなくて、自身の存在や命を確定させるという利己的な目的から来ているので、愛とは呼べない。

皆さんのパートナーはどうでしょうか。何よりも好きと思えますか?
見返りがなくとも好きで居られますか?
自身の命やその他全てを犠牲にできますか?
きっとできるのだと思います。愛しているなら。

例えば、今読んでいるあなたの彼氏彼女パートナーが、実は別の相手と関係を持っていて、あなたはただの遊び相手や、ATMと思われていたとしたら、どうしますか?
その不倫相手がおおよそ社会的に正しいと言える人間でなくて、すぐ暴力に訴えかけて、あなたのパートナーのことも大して愛していないクズ人間だったとしたら?
それでいて、あなたのパートナーは不倫相手といることを望み、それが幸福であると感じるとしたら?
そして、突拍子のない話かもしれないですが、もしも今あなたと、その不倫相手の命が二者択一の天秤に懸かっていて、あなたにその選択権があったとしたら?

そのようなとき二つ返事で自分の命を捨てられることこそ「愛」なのだと思います。
逆に、そうでないのならば、その「愛」には少なからず利己心が隠れています。愛しているのは相手じゃなくて、自分、もしくは愛し合うという錯覚ができる関係性です。


まぁ勿論これは私の考える愛の定義なので、それを押し付けることはできません。利己心にまみれた虚構の愛を語り合っていればいいんじゃないかなと思います。




皆さんに僕と脊椎へ反論する方法を伝授するはずだったのに、結果的に皆さんの言う愛情を否定する形になってしまいました。わざとじゃないですよ。
まぁでも、コレを読んでくれた皆様が、隣にいるパートナーに目を向けて、「本当に愛せているのか?」「本当に愛されているのか?」と、疑うきっかけになれば幸せです。



#私のパートナー

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