カント『純粋理性批判』ゼミノート(24.4.22分)
位置付け
超越論的原理論/超越論的論理学/超越論的分析論/概念の分析論/純粋悟性概念の演繹について
22節 カテゴリーは、経験における対象に自らを適用する以外のいかなる認識上の使用法も持たない
この節全体として、このタイトルの命題を証明しようとしています。
この引用箇所の最後の部分は文の切れ目ではないのですが、一回ここで切ります。この範囲は特に問題はないでしょう。有名なカントの認識論(認識は直観と概念の結合によって成り立つ)が確認されているだけです。
一つ前の引用箇所を概念(悟性)の側から繰り返しています。概念があっても、それとペアになる直観が与えられていないのならば、認識は成立しない。ただ、以下の部分も加味した時に気になる表現があると思います。
第一に、「概念は形式的には思考なのである」の解釈です。原文ではso wäre er ein Gedanke der Form nachです。seinが接続法Ⅱ式になっているのは、条件文でもⅡ式で仮定のことを話しているからということでいいでしょう。問題は「形式的にder Form nach」です。前置詞nachが後置されているところがやや注意点です。意味的には、「形式にしたがって」となりますが、この「形式」が何を意味するのでしょうか。カントがこの言葉にあまり意味を込めていないのであれば、「形式」は「カントの認識論の枠組み」くらいで、要は直観と概念の関係でしょう。直観がなければ認識は成立しないということです。
この、認識が成立しないという事態が、無意味な事柄、『純粋理性批判』では無視していい事態と考えるなら話は簡単です。しかし、ここではわざわざ、直観が与えられていない状態では「概念は形式的には思考なのである」と、肯定命題が(接続法Ⅱ式を使った仮定ではありますが)述べられています。つまり、直観がない場合には何も起きないのではなく、「思考Gedanke」はあるのだと読めます。いわば、純粋思考でしょうか。差し当たりこれはいわゆる概念と純粋直観(空間と時間)だけを使った思考と読めそうです。ひとまずこの方向で読んでみます。
第二の気になるポイントは比較的重要性は低いです。「私の知る限りではso viel ich wüßte」とあることです。カントのテキストで「私は考えるich denke」みたいな概念的なich以外のichが出てくることあんまない気がするんですよね。少なくとも、三批判書は普遍的な人間の認識能力とか道徳(行為)能力とかを問題にしているので、ここで急に「私=カント」が登場するのはなんなんでしょう。しかも、直後に「私の思考mein Gedanke」とかあるのも謎です。一応、ここの「私」は一般的な「われわれ=人間」という普遍的な意味しかないと考えることはできます。
ほとんど上記と同じことを言っています。直観が与えられないと、概念は認識を形成することはない。ただ、ここでは、前の感性論の結論(われわれに可能なすべての直観は感性的である)を呼び出すことで、少しだけ詳しく議論がされています。要は、概念は【感性的(感官の)】直観と結びつくことで認識を形成する、ということです。
割とありがたい補足です。「感性的直観」と言われると、目を通じて飛び込んでくるレンガの色と形とか、耳から聞こえる誰かの足音とか、いわゆる感覚的な対象だけを想像します。この本を最初から順に読んでいればそのような誤解はないのでしょうが、僕はゼミのためにこの節から久しぶりに『純粋理性批判』を読んでいたので素朴にそう思っていました。
ここでは、「感性的直観」に、いわゆる感性の形式である空間と時間も含まれると述べています。なので、②で直観が与えられない場合に想定されるであろう「純粋思考」としてカテゴリーと純粋直観だけが結合したものを考えましたが、この考えは誤っていたようです。純粋直観が与えられていることですでに、それは感性的な直観が与えられていることになり、認識が成立しているということになりそうです。
「純粋思考」を想定するなら、それは本当に概念だけの営みになるようです。想像とか妄想とかってこれに入るのかな。「認識」が成立するか否かが問題になっていますが、われわれがたとえば24億円を魔法で出現させることを想像したとしても、それは「認識」とは呼ばないと思います。これが認識なのかそうではないかがわかったところで、だからなんだって話ではありますが、単純に気になります。なんとなく、カントは「認識」をとても基礎的な人間の営みだと考えていて、「認識」の外の領域はとても狭いと考えているという印象があるからです。
そしてここで、感性的直観には純粋直観と経験的直観があるという分類が示されているのは重要です。経験的直観によって与えられるものが認識を構成するというのはわかるのですが、純粋直観によって与えられたものは果たして認識を構成するのかがこれ以降の議論のボトルネックになっているのです。
第一の規定(と第二の規定)とは、④の対比を反映しています。つまり、第一は直観形式である空間と時間、第二の規定は「感受性を通じて直接的に、現実的なものとして表象されるものの経験的な直観」です。
直観形式(と、悟性の概念?)だけでは、対象の形式だけにしたがった認識が得られると言います。一方で、直観形式のみでは、直観によって与えられるはずの対象があるのかどうなのか、もっというと、具体的に何が認識されるのかはまだわからない状態です。
これはつまり、対象が認識される際の様式だけが指定されるとでも言えましょうか。未記入の履歴書がある場合を想像するといいのかなと思います。氏名、住所、電話番号や学歴、職歴などの記入欄があってそこに入力される情報がどんなものなのかは想像がつきます。住所の欄に「釣り」(趣味の欄に書かれるべきこと)と書かれていてはいけないというルールの一部もわかります。しかし、そこに書かれるべき内容が存在するのか、そして、存在するとしたら具体的にどのような内容なのかは白紙の履歴書だけではわかりません。新卒の学生であれば職歴欄は多くの場合に空白でしょうし、どんな学校に通っていたのかも、履歴書にはまだ手がかりはありません。直観形式だけが与えられている場合とはこういう事態のことだと僕は想像しています。
なお、この箇所には訳の問題があります。「対象の形式にのみしたがって、諸対象の」という部分はPhB版(1998年)ではnur ihrer Form nach, als Erscheinungenです。ここはいま参照している日本語訳では「諸現象としての諸対象の形式に関して」(有福訳、上巻216頁)などとなっています。これはどうやら、nachとalsの間のコンマがない文章の訳だそうです(有福訳、上巻453-454頁)。有福訳はコンマがあるものとないものを比較して、ない方を採用しているのですが、いずれにせよ、彼の訳文では意味が曖昧になります。つまり、alsがFormにかかるのかGegenstandにかかるのかがはっきりしないということです。そして、コンマのないものだと、alsはFormにかかるのではないでしょうか。しかし、「現象としての形式」はカント的には意味が通らないと僕は思います。現象は感性を通じて与えられる対象の直観のことであり、形式はその現象を受け入れるためのルールです。たとえば何かの直感が形式かつ現象ということは生じないのではないでしょうか。
そのため、意味的な推察から僕はalsをGegenstandにかけて、「現象としての諸対象の認識」と訳したいと思います。そして逆説的かもしれませんが、alsの前にコンマのついたPhB版の原文を採用したいと思います。
⑤において、空間と時間の規定では具体的に直観されるべきものがあるのかどうか、そして、そのものとはなんなのかがわからないと述べられていました。このような不十分な部分があるために、「数学的概念はそれ自体では認識ではない」のです。「アプリオリな認識」ということで「認識」という言葉を使っておきながら、「それは認識ではない」というのやめてほしいですね。
次の文で「たんにかの純粋な感性的直観〔空間と時間〕の形式にしたがってわれわれに現れるような事物」があるのなら、認識は成立すると言っていますが、実際にこのような事態があるのだと、次の文で言われています。
ここ普通にドイツ語の解釈がわかんなかったです。
nur so fern Erkenntnis, als diese, mithin…
ここですね。so fernはsofernだと思うのですが、だとすると、so fern〜は「〜である限り」などの意味になり、so fernより後の部分が条件節を作ることになります。しかし、そのように読んでいる訳がなかったんですよね。しかも、Erkenntnisが主文の目的語、つまりverschaffenの目的語になっているというね。もうお手上げだったのだけど、一応、邦訳に沿った読み方はできそうだというクソみたいな見通しは立ったので書いておきます。
まず、so fernはalsと対応して、als以下の部分が条件を示します。これはinsofernの用法にあるものです(ちなみに僕の使っている独和大辞典ではsofernの項目にinsofernへの指示はないのですが、ポケットプログレッシブ独和辞典にはあるようです)。
Diese Fragen sollen insofern berührt werden, als sie im Zusammenhang mit dem Thema stehen.
これらの問題にはテーマと関連のある範囲内でだけ触れることにする。(独和大辞典)
ここでは副詞であるinsofernが主文の中にあり、条件節がalsで始まっています。これに倣って該当箇所を訳してみましょう。
nur sofern Erkenntnis, als diese, mithin auch die Verstandesbegriffe vermittelst ihrer, auf empirische Anschauungen angewandt werden können.
dieseとihrerは主文のAnschauung a prioriをとります。そうなると、als以下の条件節の主語はdieseとdie Verstandesbegriffe になります。「アプリオリな直観が、それゆえアプリオリな直観を媒介にして悟性概念が、経験的直観に適用されうる場合には、認識が(提供されるのだ)」となります。
⑥でたんに感性の形式にしたがっただけの、(無規定、無内容な)事物が存在するのなら、純粋悟性概念は認識を形成すると述べていました。そういった認識が実際にあると言っているのが⑦です。ここでキモなのがkönnenです。純粋悟性概念とアプリオリな直観(形式)だけで認識が成立するには、アプリオリな直観や、純粋悟性概念が経験的直観と結合可能な、いわばスタンバイ完了している状態の時だというのです。つまり、われわれは日常的に経験的認識を行なっていますが、仮にいまこの世界から全ての経験的直観がなくなった場合でも(つまりは感覚の対象物がなくなったとしても)、純粋悟性概念とアプリオリな直観で認識は成立するのです。こう言ってよければ、「源認識」とでもいうべきものでしょうか。
⑦では、いわば「源認識」を「認識」と呼称していたのですが、ここでは「認識」は「経験的認識」のことですね。カテゴリーはそれだけでは経験的認識を構成することはできずに、経験的認識の「可能性」を形作るのみなのです。
こうしてタイトルの命題が導き出されます。
ただ、カテゴリーは経験的対象に適用される以外の役目はないと主張するには、前提となるカテゴリー使用の範囲を限定する必要があると思います。つまり、「経験的使用」という範囲を設定しないと、上記の「源認識」があるじゃないかと言われるためです。カントは「源認識」の具体的な遂行として数学的なものをあげているので、たんに「源認識」を切り捨てることはできないのではないでしょうか。
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