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やっつけ修論構想

メンタルが死にそうなので、一度考えてることを吐き出してみます。

ニーチェはニヒリズムを時代の課題とし、その解決策として価値創造を掲げた。価値創造は未来の哲学者などと呼ばれる存在によってなされるものであり、ある種卓越した人物のみによってなされ、創造される価値もそういった人物のためだけのものという様相を呈する(LemmからClarkへの批判?)。

しかし、だとすると、ニーチェは一部の卓越した人間だけをニヒリズムから救い出そうとしていたのだろうか。新たな価値の有効性は非常に限られたものになるのではないか。そのような疑問が生じることになる。この問題はManuel Driesによって価値創造の難問hard problem(以下、HP)として一つの定式化を得ることになる。彼の定式によると、ニーチェの新たな価値が抱える、伝達(浸透)に関する問題は「価値の実在論者に非実在的な価値をいかにして受け入れさせることができるのか」という形に整理することができる。Driesによるとニーチェはこの問題に対して「楽観的で」あり、真剣に検討していないのである。本稿ではDriesの問題意識を受け継ぎ、HPの内実とこれに対するニーチェの態度を検討する。その上で、「理由を問う」ということを手掛かりとして、価値の間主観的実在論に訴える形でHPを解決する議論がニーチェの中に含まれていることを示す。

議論の内容は次のようになる。

第1章

まず、Driesを中心にHPのがいかにして発生するのかを確認する。この議論においては、ニーチェが価値の実在論を批判した上で、自然主義的理解から人間のみが価値を創造してきたものであり、新たな価値も人間によって創造されるに過ぎないものであることを示そうとしていたと読み取れるという解釈を検討に付す。レジンスターの整理で言えば、ニヒリズムは規範的客観主義(人間にとって有効な価値は客観的でなくてはいけない)を歴史的に前提としてきた人間が、この傾向を保ったままに記述的客観主義(客観的な価値が存在する)を拒否することになった(神は死んだ)ために発生したものである。ここまでは特に検討の余地がないのではないかと考えている。

この状況に対してニーチェは規範的主観主義(規範的客観主義の批判:有効な価値は主観的なものでも良い)のもとで新たな価値を生み出そうとしている。このときに、なんらかの生理学的事由によって?規範的客観主義を受け入れることのできる人間は主観的価値を作り出すなり受け入れるなりして価値喪失状態を解消し、ニヒリズムから脱却することができるようになる。しかし、規範的主観主義を受け入れることができるか否かが仮に偶然的であるのなら(ニーチェは偶然的であると考えているように見える)、偶然に規範的主観主義を受け入れられない人間が存在しうるのであり、彼らは新たな価値を得られないままということになる。ここにHPが発生することになる。

Driesはこのように見出されるHPをニーチェが看過しているとするのだが、本稿ではHPを解決する方法を探る。HPを解決する方法は二つある。ひとつは、規範的主観主義をすべての人に受け入れさせるということである。こうすることによって主観的価値が新たな価値として有効なものとなる。もうひとつは、ニーチェの主張する新たな価値に客観的根拠があるということである。本稿はこちらの戦略を探ることになる。なお、Driesの解釈をサポートする記述も検討する。ニーチェは人間を位階秩序に組み込んでヒエラルキーを形成するような発言をしているが、ここにおいては卓越した一部の人間を完成させることが目的であり、他の人間たちはその手段とみなされる。そしてこの卓越した一部の人間たちが規範的主観主義を必要条件として備えているのであれば、彼ら以外の人間たちがニヒリズムに陥ったままでも問題はない(全くないわけではないが)ということになる。この場合、HPはニーチェによって無視されていることになる。本稿ではこのDriesの解釈に反論することになるが、位階秩序に関してはのちに肯定的に取り上げることになる。

第2章

次に、HPの解決の一つの鍵となる「理由を問う」ことを検討する。これはDriesによるHPの指摘と同じ号のNietzsche-StudienにおいてMaudemarie Clarkによって提案されたアイデアである。Clarkは『悦しき知識』301番と1番を中心的に検討する中で人間が(新たな)価値を受け入れる条件として、理由の空間に入り、理由を問うことができるようになることが必要であると述べている。あらゆる行動に関して「なぜ」と問うことができ、それに答えることができるのであれば、われわれはその行動に理由を与えることができる。Clarkによると、傾向性のみならず、こうした理由の後押しを受けることが価値に従って行動することだと述べている。

Clarkの解釈は一見魅力的である。というのも、ニヒリズムや価値の創造でニーチェが問題にしているのは、まさに「なぜ」に答えるものだからだ。ニヒリズムに則すのであれば、それまで支配的であったものの効力を失ってニヒリズムを引き起こした禁欲主義的な理想は、地上の生存に伴う苦痛が「なぜ」存在するのかに答えるものである(『道徳の系譜』Ⅲ28)。未来の哲学者によって創造される価値も「どこへ」「なんのために」に答えるものであり(『善悪の彼岸』211)、理由づけする価値だと考えられる。ここから、行為に理由を与える価値を創造し与えるということでHPを解決できるのではないかと考えることができそうだ。合理的な理由によって規範的客観主義を保持している人たちに対しても客観的価値を提示できるように見える。

しかし、ここには特有の困難がある。ニーチェは未来の哲学者が事由精神の側面を持った存在であると述べる。この概念が初めて主題的に登場する『人間的あまり人間的」の記述によると、これは信仰ではなくて理由を求める存在である。ここにおいては、はっきりと禁欲主義的理想が提供するような「理由」は拒否されている。つまり、未来の哲学者が提示する価値は、多くの人間の「なぜ」に答えるものではないと思われる。Clarkはこの問題に触れていないが、この問題はHPの解決を遠ざけるものである。

第3章

本章では、本稿のHPへのニーチェの回答を提示する。それは、自然の解釈に基づいた位階秩序を間主観的客観性を持ったものとして示すことである。より大まかに示すと、ニーチェは自然を権力への意志として考えていた。Kaufmanなどに指摘されているように、これは人間の心理に関する説明概念を拡張して生物を含めた自然の原理を説明する解釈である。ニーチェは、まずこの解釈が比較的な妥当性を持って受け入れられることを示している。その場合、あらゆるものは権力への意志の傾向に従って存在することになるのだが、その傾向に従って人間に与えられうる価値は人間という種の偉大な繁栄なのだ。そして、その繁栄のためにニーチェが主張するのが、ある種の階層秩序なのである。ここでは創造的人間が偉大さを達成するのだが、そのために他の人間は奉仕しなくてはいけない。

具体的には、なんらかの制度的な位階を設けるのではなく、自らが創造的人間を準備する歴史的境界にいるという自己認識こそが創造的ではない人間に対してニーチェが与える価値なのである。そして、その伝達の可能性は権力への意志としての世界の解釈という妥当性に支えられている。こうして、本稿は以上をHPへのニーチェからの回答とみなす。

  • 非制度的な位階秩序:ゲーテの大成を準備したというふうに18世紀のドイツの民衆を形容したとしても、彼らをゲーテの奴隷と捉えることにはならない。

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