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Unmatched

社員証の裏に印刷されてあるバーコードをエントランスに設置されてある箱型の読み取り機にかざす音で眠気が幾分かマシになる。昨晩遅くまで藍色と臙脂色のどちらを使うべきか悩んでいただけに、やっとのこと覚醒した脳に、エントランス奥に飾られているガルトン・クリゾー「跋扈」の色彩が殴りつけるように染み渡る。まだ目の裏側に焼き付いてある藍と臙脂が、3Dメガネの要領で作品の深緑や淡い紫を目の前まで伸ばしている感覚がある。少し気持ちが悪くなり目頭をおさえ、コーヒーをこぼさないよう注意しながら、作品前に向かい合ってる4機のうちの右手前のエレベーターに足を速めた。
この「東京しんせいビル」はその純白の外観と、マット広告代理会社(Matt Ad Agency Company)、通称Macが39階の3分の2から最上階の46階までの約8階を所有していることから、都内では「バニラシェイク」と呼ばれている。個人的にこの愛称はいけ好かないが、斬新さや働きやすさを第一に掲げるような貧弱な若者が作り上げた環境系ベンチャー企業がその名称の親しみやすさからこのビルにオフィスを移したがる傾向にあるらしい。決して本ビルの賃料が安い訳では無いため、若くして積み上げてきた実力のある企業であるはずだと、しんせいビルの4階と5階に早川法律事務所を構える代表の早川光男は擁護していた。
6人で地上を出発したエレベーターは、目的の階まで辿り着くのに3回停止し、3回目で1人になった。やっとのこと拝めた「44」の数字を見る暇もなくエレベーターが開いた。1歩踏み出すとすぐ右に白と灰色のマーブル状の壁紙に、マットブラックと銀で「Matt Ad Agency Company」と猛々しく社名が埋め込まれている。左を見ると受付スペースの後ろから活気あるMacの社員の忙しそうな声が聞こえてくる。
左右2つずつ設置されたエレベーターに挟まれ、燃える社名に背を向けながら、いつものように受付の社員に目を合わせ眉を一瞬上げる。Macで働き始めて21年目になるが何年目から、いや、どの役職からこの方式での出勤が許されるようになったか思い出せない。
受付から仕事場に着くまでのたった30mの道のりで、直属のアソシエイトと、経理部の新人からそれぞれ嫌な情報が入った。ひとつは昨日の午後にプレゼンと企画説明を執り行った有名飲料メーカー「PKB」の新作エナジードリンク「Bear Claw」の地下鉄用広告制作について、関係者が突発的に明るい色を基調としたデザインにして欲しいと言い出したという情報だ。溜息をつきながら資料室の前を左に曲がり、丁度突き当たりに見える大きな絵を目指す。
Macは国内の広告代理店の中でも上位に入る実績と資本を有しているだけでなく、現場や上層部関係なく透明性の高い会社として長年評価されている。個人のオフィスルームは、中の様子が廊下から確認できるように廊下に面した壁とドアは透明なガラスにする決まりがあり、Macの社員証も半透明なアクリルを素材としているため、若者からのウケがいい。事務的な透明性が評価された途端、透明性を可視化するという皮肉じみた角度で社風を変えていく攻めた総務部と技術部に敬意を評して朝ドトールで買ったコーヒーを飲み干した。
銀色で掘られたマーケティング部門長の文字の下に小さく44階代表管理者とモダンな自体で白く掘られている勝色の表札が着いている一角が、自分専用のオフィスルームである。例に漏れずガラス張り仕様だが、角部屋でありながら2部屋分の面積を取っているため、存在感と他の部屋への圧迫感が自分のハードルを上げかねない事を懸念し始めている。入って左側に飾ってある大きな戦士の絵は、19世紀のフランスで古代ギリシアのスパルタに基づいて描かれた作者不明の絵画「レオニダスと盾」であり、端の資料室からでも圧を感じるような力強い絵である。

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