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都会育ちのガジュマル

 三年前、私は田舎から都会に来た。それから独り暮らしにも慣れ、実家では日常的過ぎて、今まで価値がわからなかった物のありがたさが段々とわかってくるようになってきた。そのなかでも一番ありがたさがわかった物…それは、日光だ。
窓から差し込んでくる日光。それは、昼間は家の明かりの代わりにもなってくれる。今が夜なのか、昼なのかの時間も教えてくれる。何より、天気が晴れていると、雨が降っているときより気分がいい。
とにかく、実家にいた頃は考えてもいなかった。気持ち良く寝ている自分に容赦なく差し込んでくるあのライトがここまで人間を健康にさせるスポットライトだったなんて…。
さて、ここまで日光の重要性がわかったところで、どうやってそれを手にいれるかだ。カーテンを開けてしまえばいい。至って単純な答えだが、私は面倒臭がりだ。朝、カーテンを開けて、夜に閉める。こんな単純な作業も良くて三日坊主で終わってしまうだろう。そこで私は考えた。何か植物を買おうと。植物を買えば、独り暮らしの寂しさを紛れさせることも出来るし、色の少ない部屋に緑色が増える。それに、ぐんぐん育つように、枯らさないように、カーテンを開け、日光に当てるようになる。植物を買う利点はいっぱいだ。だから、私は最初に、豆苗を育てることにした。ある程度育てば、食材に困ることもない。そう考えたからだ。しかし、これには大きな欠点があった。愛着を持って育てた植物。もっと言うなら、独り暮らしの部屋をシェアしている同居植物を自らの手で刈り取らないといけない。表現するなら、家畜を出荷する酪農家の気分になったのだ。豆苗ではなく、もっとトマトのように実を刈り取っても本体が残る植物にすればよかった。ついでに、食材も手に入れようなんてガーデニング初心者の私にはまだ早かったのだ。そう考えた私は観葉植物を買うことにした。初心者には初心者に、面倒臭がりには面倒臭がりに合った植物が、そう簡単には枯れることのない植物がこの世にはあるのだ。そう、それが観葉植物だ。早速、買いに行ったときに知った。奴等は一週間に一回程度の水やりでも十分に育つようなのだ。なんて、初心者に優しい植物達なんだ。そこで、私は出会ったのだ。都会育ちのガジュマルに。
ガジュマル。この植物のすごさを私は知っている。私の母が育った家には、大きなガジュマルの木がある。その木は、ガジュマルとインターネットで調べた時に出てくる画像に負けないくらいにでかいし、歴史を感じさせる存在である。母からの話を聞くと、母が幼児だった頃にはもう、私の知っているそのでかさだったようだ。ここまで聞けば、私が初めて店で、都会育ちのガジュマルに会った時に抱いたまるで少年の考えるようなことが想像できるだろう。

こいつも、あの木のようにでかくなるっっ。

その後、ガジュマルについて少し知ろうとネットで調べて、種から育てたやつじゃないとあんなでかさにはならないと知った時の絶望感も簡単に想像することができるだろう。でも、まったく後悔はしていない。動物を家族に迎え入れるくらいのドキドキとワクワクが私の一人暮らしの寂しく暗い部屋に日光と共に満ちた。名前もちゃんと付けた。愛着を持つ最初の段階としてはとても大事なことだ。都会育ちのガジュマルに付けた名前は沈沈丸。なぜこんな名前にしたのか?それはたまたま遊びに来ていた母が店で私が選んだガジュマルを見た最初の感想

なんかチンコ出してベンチに座っているみたいな形してるね。

からきている。だが、最初にこの名前を母に言ったらさすがに反対はされ、代替えの名前案を出された。しかし、私はすでにこの名前が気に入っていたので、このふざけた名前に意味を持たせることにした。沈沈という言葉は確か、ひっそりとして、どっしりとしているとかなんとかそんな意味だった気がする。最初の私の考えていた希望とそっくりではないか。だから私は最初の水やりの後に沈沈丸にこう言った。

大きくなれよ!沈沈丸!

下ネタが嫌いな人は多いと思うが大目に見てくれることを願う。私は決してふざけているわけではないということを、新しい家族が増えてとてもテンションが高くなっていたという事をわかってほしい。
沈沈丸は店にいた時から他の植物に比べて、枝が伸びていた。最低限の栄養を他よりも多くとるためにどんどん大きくなっていった結果なのだろう。ネットで調べて得た知識なのだが、ガジュマルという木の花言葉は健康らしい。しかし、そのほかにこの木は首絞めの木と呼ばれていて、ほかの植物に絡みつくように育ち、その植物を枯らすということからそう呼ばれているらしい。ということは、沈沈丸はガジュマルという木の名に恥じない奴だ。そう私は感じた。だから私は手探りで、沈沈丸を大きくさせる方法を考えた。土を木を傷つけないように耕すためにミミズを拾ってきて入れてみたり、(ただ、これはネットで調べると駄目な行為らしく少し心配していたら、数日後にフッと鉢の周りを見た時、ミミズの干からびたものを発見し、沈沈丸の生への執着、生命力を感じたという後日談がある。)
ちょうど母の友達からもらったタンカンの種がたくさんあったので、それを沈沈丸の栄養をするために植えてみたり、(当たり前のことだが、土に植えたら芽が出てくる。そして、その生命力にすぐに感動してしまうのがこの私である。つまり、栄養にするどころかある程度大きくなるまで同居させて、狭そうになったら植え替えよう。そう考えてしまうようになってしまったのだ。)
土の代わりにならないかと、使い終わったティーパックを干したり、タンカンの皮を干して細かくしてみたり、卵の殻を砕いてみたりした。(ちなみに、この三つだけで植物が育つか実験してみたが、今も植えたタンカンの種の芽は出ていない。)そのおかげで、出会った当時は坊主だった沈沈丸は緑色のアフロ野郎になった。しかし、ここで私は沈沈丸を母の所に預けることにした。まさかあきた?
そんなわけはない。日光を浴びるために買ったのにそれを手放すなんてこと絶対にない。それに、毎日いろんな顔を見せる奴に飽きが来るはずもない。
ではなぜか?
母の所の方がよく日光があたり、私の所よりぐんぐん育つのだ。しかも、母の方が植物の知識がある。亀の甲より小僧の孝。小僧の孝より年の功というわけだ。そうなれば、沈沈丸からしたら手探りで無知識の小僧に育てられるより、知識豊富で日差しも豊富の所にいた方が幸せである。なにか本末転倒な気もするが、生き物を育てるというのはそういうことだ。つまり、私はまた日差しのない生活に逆戻りしていた。母の所にいた方があいつは大きくなれる。私が望んだ姿に近づく。そう最近まで思っていた。だが、自然というのは恐ろしい。読者のみなさんも身をもって感じているだろう。今年の夏の異常な暑さを。普通の水やりでは植物も人間も耐えられる暑さではない。ひさしぶりに見た奴の周りは緑の芽ではなく黄色の芽が生えていた。そして、奴の頭も…緑のアフロから黄色の…いや、私はなめていた。都会育ちの奴を。奴に流れるDNAを。さすがにアフロとはいかないが、どの葉も黄色になっていなかった。しおれていても緑色のままだったのだ。私は沈沈丸を都会育ちの根性なしと勝手に思っていたのだ。根性がないのはどうやら私のほうだった。この暑さに、日々の仕事の多さに勝手にしおれていた。そう気づかされた今日この頃である。



#創作大賞2023 #エッセイ部門

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