【感想】暗黒騎士は構造に抗いながらも、受け入れる話だと思った

暗黒騎士レベル50までのジョブクエをコンプリートした。

イシュガルドにおける決闘裁判で、暗黒騎士が現れたと噂になっていた。 主人公は裁判で破れた男を雲霧街で発見。ソウルクリスタルにふれることで不意に暗黒の力を得る。 剣士の名はフレイ。剣士は主人公に、暗黒の力を制御する術を伝える。 主人公が力を得ると同時に聞こえた謎の声。その声の正体はわからないが、真の暗黒騎士となるためにはその声の正体を理解することが必要なのだというが……

エオスト:STORY | 3.ジョブ・ロール-132暗黒騎士レベル30-40【死より冥き闇に】より引用
強調は引用者による。

ということで、50レべまでのストーリーは暗黒騎士であった「フレイ」と冒険者を主軸に、それ以降はフレイの兄弟子にあたるシグルドたちが中心となって展開されるみたいなのでもうちょっと続くんじゃよになっている。

がそれはさておき、正直これをジョブクエに持ってくるって攻めてるな~!と思った。

攻めてるジョブクエ:冒険者に魂が宿る蒼天

オルシュファンの一件のときも書いた気がするが、蒼天のストーリーの最中「あ、冒険者に魂が宿った」と思う瞬間が何回かあった。その瞬間明確に冒険者が私の手を離れ、一人のキャラクターとして自立した。暗黒騎士は蒼天の中でも特にそういうクエストだったなと思う。

フレイが怒るのは、構造に抗いたいからだ

さて、暗黒騎士のジョブクエではフレイが冒険者に代わって怒りまくる。
良いように扱われる冒険者に対して「もっと意見を言えよ!」と言わんばかりにぷんすかぽっこー!と沸騰していて、最後には「自分の声を聴いてほしかった」と言って顔をあらわにする。そして、そこにいるのは冒険者そのものである……。

フレイは明確に「冒険者の中の負の感情、押し殺した怒り」だ。
ではなぜフレイはそんなに怒るのか?なぜ冒険者は自分が抱える負の感情を無視したり、押し殺さなければならないのか?

それは冒険者が、気が付いた時には巨大な構造の中に取り込まれていたからだと考えると個人的にはかなりしっくりくる。

冒険者がフレイの言う「やらなくていいこと」をするのは、それが周囲に求められる行動だからだ。周囲の人々にこうあってほしいと願われるから、その願いに応じて手助けをする。
それが冒険者のやりたいことかはどうでもいい。冒険者だと知られた瞬間周囲の人々に乞われるから、そういう行動を取らざるを得ない。

これはFF14というゲームを始めた当初からずっとそうだ。
新生の最初期がずーっとお使いゲームなことは定期的にネタにされるけれど(私も最初、ここで挫折したけれど)、そのころからずっと「冒険者は誰かにお願いされると断れない性質の持ち主である」と刷り込まれている。

だから依頼を受けることにプレイヤー側としては何の抵抗もない。プレイヤーはイヤイヤでも、冒険者自身は嫌とは思わないのではないかと思ってしまう。
そのためどんどん依頼を受けていくのだが、これこそが構造に取り込まれていく過程だったのではないか。

「構造に取り込まれる」と抽象的な話をしているけれど、これはみんなが抱えていることだ。要するに周囲から求められる役割を、イヤイヤでも果たしてしまう状況のことだ。

つまり冒険者的には「その依頼は受けたくないな~」と思っていても、周囲から「あなたなら何でも依頼を引き受けてくれますよね?」(何度もゲーム内で目撃した文章だなぁ)と言われた瞬間、構造に求められる行動を起こさざるを得なくなり断れなくなってしまうのだ。
それが構造に取り込まれるということだ。

冒険者は「お人好しで人に頼まれると断れず、あっちこっちに顔を出してしまう」という役割をエオルゼアという構造に押し付けられている。
(メタ的に言えば、これは物語の主人公なのだから当然と言えるはずだが)

物の大小はあれど、誰しもが経験したことがあるはずだ。男らしさ、女らしさを含めたその人らしさは、自認する要素以外に周囲から求められるものも多い。
そうして「この人はそういう人だから仕方がない」みたいな結論をつけられてしまうと、いよいよ逃れられなくなる。

だからその構造から逃れるために、冒険者を知らない人しか存在しない「エオルゼアの外に逃げる」という提案をフレイがする。繰り返しになるがそれはフレイが、エオルゼアの構造に勝手にヒカセンが取り込まれてしまったことに怒っているからだ。
ところが「エオルゼアの外」に出たとしても、また何かの社会に組み込まれれば、同じことが再び起こるのだ。フレイの提案は不完全なものでしかない。

そのことを理解しているから、冒険者は負の感情が自分に存在することを認め、受け入れてフレイと今後生きていくことにしたのかなと思う。
フレイが言うように、エオルゼアの外に逃げることもできる。
でも逃げても結局また大きな構造に取り込まれる。であれば、そのことを受け入れ飲み込んで、その感情と一緒に生きていくことを選んだのだろう。

それは、エオルゼアの中で生きていくという決断でもある。
押し付けられる役割を受け入れることこそが、社会の中で生きていくということそのものなのかもしれない。

押し付けられる役割を受け入れる残酷性を感じる

さて巨大な構造に取り込まれることについては、この本でも書かれている。何度も引き合いに出すくらい好き。

「ノー・カントリー・フォー・オールド・メン」(以下「ノー・カントリー」)に登場する主人公の一人ルウェリン・モスはベトナム戦争の帰還兵だ。

モスは今でこそ溶接工として働き、妻とともにつつましやかな生活を送る男だ。ところがベトナム戦争の時には「味方を見捨ててでも敵兵を撃ち殺す」男だった。
モス以外にも、こういうキャラクターが登場する。彼らはみな今はアメリカで暮らすが、しかしPTSDに苦しんでいる者もいる。

今はアメリカという国が求める善良な市民の姿を取っていて、ベトナム戦争の時にはアメリカという国に求められて残虐な兵士になったのだ。

ではどちらが真実のモスなのか?というと、個人的には善良な市民の姿こそが本来のモスではないかと思えるし、他のキャラクターもそうだ。

ところが兵士となって戦争に行き、国に求められて人を殺すという本来の自分とは乖離した行動を起こした。そのことで戦争に行くより前には真の意味で戻れない。戻ることができないのに、求められて元の自分に戻ろうとする。その乖離がPTSDとして発露する……。

まさにフレイと冒険者の関係性に近いと言えるのではないかな、と今なら思う。

フレイがあんなに怒るのは、冒険者が勝手に構造に取り込まれその一部にされてしまったからだ。別になりたくて英雄になったわけではなく、周囲に求められて英雄となったからだ。
でもその怒りを冒険者本人は発露することができない。冒険者が怒れば、構造に求められる行動を取らないということになり、今いる構造から疎外されることになる。
だから代わりにフレイが怒る。

フレイは死んだ肉体に宿った冒険者の感情であって、生きた人間では無い。
生きた人間でないという、本来のエオルゼアという構造から逸脱した存在だから、その構造の中にいる人に怒ることができるのではないかと思える。

ただこうして怒っているのはフレイだけではない。勝手に大きな歴史という構造の中に取り込まれ、がんじがらめにされることに一番怒っていたのはイルベルドだった。

イルベルドが怒っていたこともこういうことだ。
自分が気が付いたら歴史の1文字でしかなく、自分の感情は関係なく他者からの関係=構造によって動かされることに強烈な反発心を抱いている。
意外とこういう構造に対する反発心を持ち、そこから脱出しようともがく人が多い。

だが残念ながら、今もっともこの巨大な構造から逸脱しているのはゼノスだと思っているので、つくづくイルベルドは報われないなと思ってしまう。
だが、だからこそ社会の中に取り込まれて個人としての機能をなくしていくことの残酷性を感じる。
ゼノスはいつまでもゼノスだが、イルベルドはもうアラミゴ奪還の犠牲者というたくさんのひとびとの一人でしかなくなってしまった。

大きな構造の中で輝くか、あるいは他の構造を見つけるか

ということで、個人的にはこう考えるとしっくりくるな、という話をしてみたけれど、もちろん別の考え方もある。

おそらく最大のテーマは「怒り」をはじめとする負の感情と、一体どう向き合うのか?そして今求められるポジションを維持することの意味だ。
だけどその最大のテーマ以外に、実はこんな風に考えることもできるんじゃないか?とついつい裏を読みたくなる。

それに大きな構造に取り込まれるというのは、社会に生きる人間が皆味わう感覚でもある。常に誰かの目を気にしなければならない窮屈さは、身近な感覚のはずだ。そこから抜け出したいと思っても、新たな構造に取り込まれるにすぎない。

「なら、それすら受け入れるしかなくない?それが生きるってことなんでしょ」ということを言ってのけるのが凄い。

今、アラミゴやドマを舞台とする紅蓮を進めているからこそなおさら思う。
今いる構造に抗う話を見させられているからこそ、なおさら暗黒騎士の話が重たい。

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