【感想】紅蓮のファンファーレが辛い話

ということで4.0をクリアした。
改めて考えてみても、紅蓮はキッツイ物語だったな〜と思う。

以前こういう記事を書いたのだけれど、今回は物語的だけでなく音楽的文化的にキッツ…つら…と思ってしまった「壊神の拳が届く場所」に絞って感想を書いてみる。
こういう見方もできるな、考え方もできるなと思わせてくれるから大作ゲームは遊んでいても、考えていても楽しい。

ファンファーレを聞くのがつらい

ゲーム内は、14開発チームの皆さんがこだわり抜いている音楽がたくさん登場する。そのこだわりは、ちょっと前にゲームさんぽで祖堅さんも語っておられたわけだけど、紅蓮で代表的なものといえば「壊神の拳が届く場所」だと思う。

この曲、最初に紅蓮をスタートした時にまずクエストクリアのタイミングで流れる。いよいよ新しいパッチに突入したんだ!という高揚感を味わったことはよく覚えている。

その次に聞くのはラールガーズリーチに到着してからだ。BGMで朝晩にそれぞれアレンジされたものが流れる。
そうして一番インパクトのあるバージョンとして「我らが支配圏」というガレマール帝国の愛国歌としてカットシーンで流される。

この流れで聞いた時、最初に思ったのは「あ、このメロディーってガレマール帝国の軍歌なんだ!!軍歌がメインテーマにされているなんてなんて残酷なんだ…」ということだった。

ところが4.0を全体で通して遊び、神龍討滅戦まで終えた後アラミゴ城を奪還した人々は声高らかに、そうして猛烈に下手くそな合唱で「壊神の拳が届く場所」を歌い出す。

で、ここでようやく気がついた。
このメロディーはもともと「壊神の拳が届く場所」としてアラミゴで愛された曲であり、ガレマール帝国の圧政下においてガレマール帝国風の歌詞が付けられたものが「我らが支配圏」なのだ。
(そうでなければ、そもそもラールガーズリーチのBGMにも使われないよな…ということに気が付かなかったのはご愛敬)
つまり私が考えていたものと因果が逆だったし、20年近くまともに人々に歌われなくなったために皆めちゃくちゃに歌っているのかも、とも思える。
ゼノスと神龍を倒し、高くアラミゴの旗を掲げたことで、ようやく本来の歌詞で歌うことができたのだ。

ということに思い至って改めて「うわ、えげつないな」と思った。

ガレマール帝国はこの曲に新たな歌詞をつけることによって、土地だけでなく文化的にもアラミゴを征服しようとしていた。

我らが支配圏:ガレマール統治の象徴

さてそんなアラミゴの苦痛が凝縮された曲である「我らが支配圏」。
歌詞を確認してみると1番では

The light of mighty Garlemald
For e'er our guiding star
(強大なガレマール帝国こそ、我らを導く星)

ガレマール帝国属州歌 / アラミゴ国歌 翻訳
final fantasy14 Rordstorn

翻訳は引用者による

と、圧政を敷いているはずのガレマール帝国を讃える歌詞となっている。
ここを見るだけで、この歌詞はアラミゴが植民地になってから作られたことがすぐ分かる。
さらにカットシーンでは使用されていない2番、3番を確認してみるとだんだんその内容は物騒なものに。
特に3番はかなり激しめの内容。

Behold the boundless legions
Whose wings embrace the sun
Their fire rains down upon the land
Until their course is run

By mercy of Lord Galvus―
The pride within us all―
Shall we be granted victory
For glory, Garlemald
(我らが限りなき軍団を見よ、その翼こそ太陽を抱き
 大地へとその炎を降らせる 覇道の果てにたどり着くまで

 我らが慈悲深きガルヴァス帝こそ誇り
 必ずや勝利をこの手に ガレマール帝国に栄光あれ!)

同上

(※歌詞内では「Lord Galvus」となっているが、ここに登場しうるガルヴァスの名を持つ高位の人間はガレマールの皇帝だけなので、ガルヴァス帝と翻訳した)

要するに「アラミゴの土地はガレマールが支配したぞ」「苦労したけどこれからいい国にしなきゃね(圧力)」「なんでもいいけど軍事力がすごいんだから刃向かうんじゃねえし、お前らが生きてるのはガルヴァス帝のお慈悲のお陰なんだからきりきり働けよ」の3段活用になっている。
物騒な歌詞についてはラ・マルセイエーズ星条旗とかがあるのでまあ、こういう歌詞だと言われてしまえば気にならないかな…。

それよりもこの歌詞が考えられるまでの経緯や、このメロディーが選ばれた背景を考えるとズーンと来る。

なぜこのメロディーが選ばれたのか?

日本の国歌「君が代」は、当時日本の中で大きな地位を占めていた薩摩藩の人々に広く知られた歌だったから採用されたという。
もともと古今和歌集に収められた読み人知らずの和歌があり、その和歌にメロディーをつけたことで、現在の形になった。

こういう経緯を知っていると「壊神の拳が届く場所」は、幅広くアラミゴで歌われていた曲なのではないかと想像できる。エンディングのカットシーンを見てもみんなが歌っているので、よく知られ、頻繁に歌われていたのだろう。
またラールガー神の大きな像のあるラールガーズリーチはまさに「壊神の拳が届く場所」という名前を持つ土地だ。この土地にゆかりが深いのがジョブの一つモンク。
ラールガーズリーチは、そのモンクと敵対するアラミゴ最後の王テオドリックが焼き討ちを行った場所でもある。

こうした情報から妄想を広げてみる。
この「壊神の拳が届く場所」はもともとアラミゴに古くから伝わる歌である。そしてテオドリックに対する反乱軍の中でも頻繁に歌われていたのではないか。
そしてテオドリックに対する反乱で頻繁に歌われていた曲だからこそ、このメロディーが愛国歌として採用されたんじゃないか。このことを知っているアラミゴ人によってガレマール側へと歌詞の変更が提案されたのではないか、と想像できる。

実際フォルドラの父のように、侵攻後すぐにガレマール帝国側についたアラミゴ人も多そうなので何らかの提案はあっただろう。

この曲ひとつとっても、アラミゴの複雑な歴史を表していることを想像できなくもないところはすごい。

比較して分かる「我らが支配圏」のえげつなさ

ここまでは「我らが支配圏」にフォーカス当てまくってきたが、そもそも原曲は「壊神の拳が届く場所」なので一緒に見ていかないと意味ないよね。
ということでまたまた歌詞をお借りしてきた。

これは同じ部分の歌詞なのだが、翻訳してみるとその内容がかなり考えられて作られたのではないかと想像できる。

The light of mighty Garlemald
For e'er our guiding star
(強大なガレマール帝国こそ、我らを導く星)

ガレマール帝国属州歌 / アラミゴ国歌 翻訳
final fantasy14 Rordstorn

翻訳は引用者による


Beneath yon burning star there lies
A haven for the bold.
(天に輝く「導きの星」の下に 勇者たちの聖域はある)

同上

例えばこの部分。
もともとの歌詞は「導きの星の下」こそがアラミゴであると謳っている。
対して我らが支配圏では、その星はガレマール帝国であると表現される。これは間違いなく元来の歌詞を踏まえて作られたものだ。

また曲の最後のフレーズも、見事に対比になっている。

Shall we be granted victory
For glory, Garlemald
(我らが慈悲深きガルヴァス帝こそ誇り 
必ずや勝利をこの手に ガレマール帝国に栄光あれ!)

同上

For no one soul doth lie beyond
The measure of His Reach
(ひとり残らず誰しもが 壊神の拳が届く場所にあるゆえに)

同上

武力を持って制圧したガレマール帝国の皇帝こそが慈悲深いと表現されるのがなんとも…対してラールガーは壊神であるということを踏まえ、その拳による制裁を恐れよ、誰もその拳からは逃れることはできない無慈悲なものだぞ、という歌詞になっている。

このように、他のフレーズももともとの壊神の拳が届く場所を踏まえた表現が多い。
2番では「疲れた手」という印象的なフレーズが使われているし、3番の「我らが限りなき軍団を見よ」のくだりで登場する炎は、元来ラールガーの炎だ(ラールガー神は炎を手にしている彫刻もある)。
細かく突くとキリがないほどに、ベースとなった歌詞が意識されている。

こういう細かな部分が「えげつない」と改めて思わせてくる。
それはこうやって元来の歌詞を下敷きに新たな歌詞を作ることで「文化を丸ごと破壊して、ガレマール帝国風に作り替えよう」という意思が見えるからだ。

何がどう「えげつない」のか

とはいえ、ただ歌詞を書き換えただけでえげつないというのは言い過ぎという意見もあるだろう。

なので、具体的な例を挙げてみる。
世界を眺めてみると、アフリカにはやたらと公用語が英語だったりフランス語だったりする地域が多い。また南アメリカではスペイン語が公用語とされている国が多数だ。

それは、その言葉を公用語とする国々に植民地支配されていたからだ。自分たちと同じ言葉を使わせることで、コミュニケーションを円滑にすることだけでなくスパイ行為を取り締まることにもつながったりもする。身近な例でいえば太平洋戦争時、沖縄では沖縄方言(ウチナーグチ)で会話することはスパイ行為と同等であると目されていた。 

ほかにもオランダに長年統治されていたインドネシアでは、320以上あるという民族ごとの言語を統一することは固く禁じられていたという。
それは統一言語が生まれることで、大規模な反政府運動や革命行為が発生するのを防ぐためだったと言われている。

こういう現実の例からも理解できるように、言語をコントロールするということはすなわち民族をコントロールすることにもつながるのだと思う。
言葉を奪うことで、その言葉で受け継がれてきた文化を潰すことだって容易にできる。言葉を奪えばそれまでの一般的な国の考え方(宗教や風俗)を塗り替えることもできる。
ガレマール帝国はこういうことをよく理解している人が内部にいる。だから国としての統一をそぐために、その象徴となる言語の代わりに歌を奪ったのだ。
「壊神の拳が届く場所」は歌であると同時に、人々の言葉でもあった。歌詞の内容を見ても、人々の言葉を代弁する内容だからこの考えは的外れではないのではないはずだ。

さて、言葉を奪うことは、まさにナショナリズムの目をつぶすためにも行われる行為であるといえる。
スタンフォード哲学百科事典はナショナリズムをこのように定義している。

The term “nationalism” is generally used to describe two phenomena:
1.the attitude that the members of a nation have when they care about their national identity, and
2.the actions that the members of a nation take when seeking to achieve (or sustain) self-determination.

ナショナリズムとの用語は通常は2つの事象を記述するために使用されている。(1)ネイションの構成員が、彼らのナショナル・アイデンティティを気にかけている際の様子 (2)ネイションの構成員が、自己決定の達成または持続を求めている行動

スタンフォード哲学百科事典「nationalism」より

この概要に当てはめるならば、アラミゴで起こった一連の運動はナショナリズムにより発生した事象であるといえる。

ではこのような抵抗運動で大切なのはなんだろう?と考えてみた。個人的にはリーダーと象徴の2つではないか、と思う。(この二つは似ているようで、実際はかなり差があると思うので別物とする)

紅蓮の物語のなかで、象徴的なリーダーの一人がヒエンだ。
ヒエンはドマ反乱軍のリーダーであると同時に、ドマの象徴でもあるといえる。
対してアラミゴ抵抗軍のリーダーはコンラッドからリセに移っていく。だが象徴するものはプレイ中ずっと、どうにもイマイチわからなかった。

だがアラミゴにとって抵抗運動やナショナリズムの象徴となるものの一つがこの「壊神の拳が届く場所」であるとガレマール帝国側が判断したのではないか、と考えると歌詞が書き換えられたうえ、象徴的に使用されているのも納得がいく。

歌詞の最後の「ひとり残らず誰しもが 壊神の拳が届く場所にあるゆえに」とはテオドリックやガレマール帝国のことを指す言葉として謳われていたのではないか。
だからこの歌を新たな歌詞で歌うように書き換えたのではないか。
その後ラストシーンだけで正しい歌詞で歌われるのは「アラミゴの象徴がアラミゴの人々に取り返されたこと」を表しているからではないか。

そう考えてみると、全体の辻褄が合わなくもない…気がする。
それにこの禁止されていたはずの歌詞が、脈々と受け継がれていた…という終わり方も美しい。アラミゴは文化としても国としても未だ死せずってことなのだ。

まとめ:ガレマールという国の機能性がすごい

ということで4.0の感想としてなんとも微妙なところにフォーカスを当ててみたけれど、言いたいことは「ガレマールという国の機能性」だ。

「壊神の拳が届く場所」ひとつ取ってみても、本当に実用性に全振りしていて無駄がない。
ガレマール帝国は自然発生的に国になったとはとても思えない要素が、とても多い国だと感じる。
強烈なカリスマが自らの意思を持って「こういう形に仕上げたい」と思っている形にパーツをはめ込んで作ったかのようだ。

たとえばガレマール国内で使用されているミドルネーム。
あのミドルネームはアルファベット順になっており、AからZに向けて階級がどんどん上がっていく。これが数字ではなくアルファベットである=終わりがあるというところが非常に機能的だ。

このミドルネームについては「ΑでありΩである」ということを知らしめるような設計なので、実にアブラハムの宗教的でもあるな、と思う。
まるでガレマール帝国がすべてを制する神に擬せられているように感じる。

もしもガレマール語という言葉が存在し、その言葉がガレマール帝国の公用語だとしよう。その場合異なる言語を母語とする民族であっても、ガレマール語のアルファベットくらいならすぐに理解し覚えられるはずだ。
一番下の階級は最初の文字、最上階級が最後の文字であるというのは、どんな知識を持った階級であってもパッとすぐに理解できると想像がつく。

そうなれば、ガレマール語が別に理解できなくてもいい。
アルファベットの早い段階に自分の名前があれば、それだけで自分が奴隷であるといやでも意識させることができる。

本来なら煩雑で分かりにくいはずの階級という制度(たとえばイギリスの貴族社会や、インドのカースト制なんてマジでわかりにくい)を、実にシンプルかつ覚えやすく、同時に刷り込みやすい形に整えているのだ。

こうした機能を優先する考えは、こんなところにも現れている。
ガレマール帝国軍は第1から第14まで数字で軍団数を表現するので、その直後の何番艦と言う表現はアルファベットの方が恐らく混同しにくくなる。

アメリカ海軍の原子力空母なんかは人名で長く、ジョージ・H・W・ブッシュやドワイド・D・アイゼンハワーなど大統領の名前がつけられていて、本当に覚え長くそうだと思う。

まあ、何をどう扱った方がわかりやすく混同しにくく、人間のポカミスを防げるかというのは育成環境にも左右されるだろう。
だが多民族を擁することを考えると、こうした機能に全振りしたガレマール帝国の制度は分かりやすさの形の一つではないかと思える。

「アラミゴ風の石を使った建築物は野蛮であり、鋼の建築物こそが高貴な証」みたいな話も、こうした制度に通ずるものがある。

あらゆるものを整え、人の手を入れて自在に仕上げたい…すべてをコントロールしたい…ガレマール帝国はそういう人が作った国なのではないかと思えてならない。


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