記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。

オルシュファンが良いやつすぎる。

でもいいやつばっかり先に天に召されてしまうんだよな…。
あと死ぬかもしれないと覚悟はしていたけれど、それは死んでいいということではないんだぞって顔になっている。
などと思っていたら長くなってしまった(余計なことも語りすぎて普通に6000字超えた)、つらいです。

オルシュファンの死を嘆く父フォルタン伯を見ていたら、彼が生まれはよくなくとも恵まれた家族の中にいたのだなと思えた。
それと同時にこの本の内容をふと思い出して、「ああ、これはオルシュファンもこうなっていたかもしれないんだよな」みたいな、あまり言いたくはないがオルシュファンが比較的親ガチャに成功しててよかったな、という気持ちになる。

というか基本的に蒼天に登場する人たちはみんな、生まれガチャは失敗しても育てガチャについてはおおむねは成功している人が多い。
あとは冒険者のように出会いガチャに成功している人もいる。ルキアもこのタイプだろう。それはなにより幸いなことだ。

とにかく、オルシュファンはかなりこの「育ての親ガチャ」に大勝利している。それは本人の努力や精神性とうまくマッチしたと思うし、それがオルシュファンとその家族が好きな人が多い理由でもあるのかな。

親ガチャという言葉は好きではないけれど、ここではもはや親ガチャと呼ぶほかないのでそう表現する。
家庭ガチャとか、人生ガチャ、一族ガチャと言ってもいいかもしれない。

オルシュファンについては2つ目の「で、なぜオルシュファンなのか」から書いているので、本の内容について触れなくていい人はそこまですっ飛ばしてください。


心臓を貫かれて:究極の親ガチャ失敗家庭

さてこの本はアメリカの犯罪者で元死刑囚のゲイリー・ギルモアについて、その弟で音楽ライターであるマイケル・ギルモアが記したノン・フィクション作品だ。
翻訳を手掛けたのは村上春樹。彼の奥さんが原書を読んで「すごい本だから読んで翻訳したら」と勧めたことが、最初のきっかけだったという(そういう会話がある時点ですごい夫婦だ)。

この本がすごいのは、犯罪に関するノンフィクションという点ではない。
犯罪を犯した人間の家族が、なぜその犯罪を犯すに至ったのか?を家族という視点から生々しく回想しているからだと思う。
トルーマン・カポーティの「冷血」も似たような作品で素晴らしいが、それを上回っていると感じる。

ゲイリーはアメリカの殺人犯であり、死刑廃止の潮流のさなかにあって自ら死刑を求め、執行されたという男だ。
高い知性と芸術的才能を持ちながら人生の半分以上を刑務所内で過ごし、時には刑務官や他の服役囚に暴力をふるって懲罰房に頻繁に放り込まれていた。やがて強盗殺人を行い、その結果彼は自らが「死刑にされる権利」を声高に叫んで銃殺刑で死んだ。

一方弟のマイケルは幸い兄が犯罪に走る原因となった存在と長く関わることが無かった。そのため何とか「呪い(作中マイケルはマジでこう表現している)」が軽く済んだために一般人として生きることができた。
やがてゲイリーを含めた3人の兄たちが、一体どうしてこんな人生を歩む羽目になってしまったのか、彼は家族の歩いた道を自ら辿る旅を始める。

なお、マイケルの3人の兄たちはそれぞれろくでもない人生を生きることとなった。
長兄のフランクは世捨て人のように生きながら死んだような人生。
次男のゲイリーは強盗殺人の末死刑。
三男のゲイレンはもめ事の末、自分が殺された。

時にはマイケルの祖父たち先祖の代までさかのぼって、彼は徹底して俯瞰した視線で家族の話を書いていく。
一体どうしてゲイリーは殺人を犯すことになったのか?他の人生の選択肢は存在しなかったのか?マイケルは3人の兄たちやヒステリックな母、詐欺師同然で暴力を振るう父を思い出しながら紐解いていくことになる。

不謹慎なもののたとえで言うなら、「ノベルタイプのゲームの分岐点探しに近い気もする。」と表現した人もいて、私も実にその感覚が近いなと思った。
どこかの分岐で違う選択を選べば、兄は殺人を犯さず本人も死刑にならなかったのではないか。それをマイケルは記憶を掘り起こし、家族と何度も話し合って、様々な人にインタビューを試みながら必死に、そして丹念に可能性を探していく。

そうしてその結果、ゲイリーを含めた自らの兄たち3人がたどった末路が「それしか選びようのない3つの一本道だった」と結論を出す。
彼ら3人がそれぞれ攻略できるルートはもともと決まっていたのだ。

1.誰も愛することができず、成功することもなく、自分を傷つけながらひっそりと消えていく人生。
2.自分が小さいころから味合わされた、理不尽な暴力や境遇に怒りと絶望を感じ、その怒りのおもむくままに他人を傷つけ殺す人生。
3.2と同じルートをたどりながら、他人を殺すのではなく殺される人生。

ゲイリーはそのうちの2を、残りの2人はそれぞれ1と3のルートを選んだ。
だがこのゲームは1秒でも選択するのが遅れれば革製のベルトで身動きできなくなるまで滅多打ちにされ、熱い中身の入ったスープ皿に頭をいきなり突っ込まれ、再三にわたり「お前の世話なんてもう金輪際見ない」と脅される。

こんな調子でマイケルの3人の兄たちは、生まれた時から苛酷な家庭環境の中で生きぬくことになった。暴力的で支配的で気まぐれな父、そして父にDVを振るわれながらもそこから抜け出す術を持たず、常に怒りに満ちたヒステリックな性格になった母。
やがて逃げ場のないこの環境の中で、ゲイリーと3番目の兄ゲイレンは非行に走るようになっていく。

そしてこうした度重なる精神の殺人の結果、ゲイリーは本当に殺人犯となって「周囲に災厄を振りまく人」となり、やがて死刑廃止の潮流を嘲笑し、死刑執行を迎え銃殺刑で死ぬ。

「いつもそこには父親なるものがいる(There will always be a farther.)」

死刑執行直前、ゲイリーはこう言い残す。
ここまでマイケルと一緒にギルモア家の呪いを辿ってきた読者はこの一言に戦慄するわけだけれど、家族の話になると誰しもが「父親なるもの(つまり親から与えられる呪い)」から逃れることはやっぱりできない。それと同じように、ゲイリーは自らの父フランクから永遠に逃れることがかなわなかった。

しかし残酷なことに、ギルモア家で父親とともに育った4人の息子たちがそれぞれろくでもない結末を迎え「家庭は持たない」「子は残さない」と決め血を絶やす決断をしたというのに、父親が他所で作って捨てた子供たちは普通に家庭を持っている。それは捨てられた子供たちが、父親から傷をを負わされずに済んだからにほかならず、その傷こそが呪いなのだと分かる。
だからゲイリーは処刑の直前「父親なるものからは、傷を受けた自分に逃れる術などなかった」という意味でこういったのだろう。

「心臓を貫かれて」は、俯瞰してみると機能不全を起こした崩壊家庭内のスケープゴートが、魂の殺人を通して周囲に害をなす「災厄を振りまく人」になっていく物語になっている。

この本に登場するゲイリーの境遇に憐れみを感じるが、実際犯した犯罪は犯罪だ。それはやってはならないことであって、その点にとやかく言うつもりはない。
ただ、ゲイリーの全く異なる可能性を必死になって探す弟がいてくれたことは、彼の慰めになっていたらいいよなあとは思う。

で、なぜオルシュファンなのか

ということでここまで全く関係なさそうな話をだらだらと語ったのだが、一体どの辺をどう見て私が「オルシュファンがこうなっていたかもしれない」と思ったのか。

「心臓を貫かれて」は、俯瞰してみると機能不全を起こした崩壊家庭内のスケープゴートが、魂の殺人を通して周囲に害をなす「災厄を振りまく人」になっていく物語になっている。

上述より抜粋

と、先ほど書いたけれど、このスケープゴートと言うのはアダルトチルドレンにおける類型のひとつだ。
家族内のいびつさをすべて受け止める、何も悪いことをしていないのに自分が悪いことになる、言ってしまえば「家族の感情のごみ箱」を指している。

オルシュファンはフォルタン伯の愛人の子だ。そして愛人の子であるという本人にはどうにもならない落ち度のために、フォルタン伯の妻に嫌われている。
恐らくフォルタン伯の妻が首を縦に振れば、彼もフォルタン家の人間として引き取られ養育されただろうがそうはならなかった。オルシュファンが無関係の名前を名乗るのは、妻がそれを許さなかったからだったという設定を見て、やっぱりなと確信を深めた部分もある。
妻にとってオルシュファンこそ「感情のごみ箱」であり、浮気相手や夫に対する怒りを本人には向けられずオルシュファンに向けている。
家族のうちの誰かが一人にこういう感情を向け始めると、恐ろしいもので人間は皆その一人に負の感情をぶつけるようになることが多い。

ただそこで救いだったのは、少なくとも父親であるフォルタン伯本人と、その息子たちがオルシュファンをスケープゴートにはしなかったということだと思う。
フォルタン伯の妻はオルシュファンにとって邪悪な人であったが、そのほかの家族はそうではなかったということだ。

フォルタン伯はむしろ妻に対してもオルシュファンに対しても罪悪感を抱き、この限られた中で養育をしようと努力して立派に騎士として育て上げたし、兄のアルトアレールもオルシュファンのことを「あの男」と呼び母を慮って敬遠はしているものの害しているわけではないどころか、認める部分もあるようでライバル視している。
エマネランも同じくで、オルシュファン自身をあしざまにいうことはない。ぎくしゃく困惑しながらもこういうものだと2人はなんとか受け入れようとしている。そこには母親が嫌っているから遠慮している色が濃く、彼ら二人がオルシュファンを嫌っているわけではないということがちらちらと見える。(多分二人とも母親のことも大切にしているからこその反応だと思うし、アルトアレールは特にその点感情の折り合いの付け方に苦労しているっぽい。この家族の中ではかなり苦労人)

上述のような関係があって、オルシュファンは自らの生まれについては微妙な感情を持っていたとしてもまっすぐな人間になれた。
4人はそれぞれ、いびつな形になったとはいえお互いを思いやり、彼らができる最大限の歩み寄りをして家族を形作っていたと考えて良いと思う。

これはやはり父であるフォルタン伯がそうあろうと努力したからだと思うし、実際妻や3人の兄弟たちにかなり心配りをしただろう。それこそがオルシュファンにとって最大にして最高の人生のストッパーになった。

フォルタン伯がそういうことに頓着が無く彼を放っておいたなら、間違いなく彼は災厄を受け止め続け、やがては災厄を振りまく側になっていたはずだ。雲霧街で遭遇するヒルダはこれに近く、彼女は出会いによってその運命を回避している。
フォルタン伯は妻以外の女性に手を出すというやってはならないこと(しかしイシュガルド貴族の間ではポピュラーっぽい)をしたし、彼の妻は罪なき子供を責める不毛な行動に走ったが、それでも精一杯オルシュファンにしてあげられることをしたいという父としての情までは否定しなかった。
もちろん最低限教育させて働き口を見つけることで、フォルタン家へ災厄を振りまく存在にしないというのも大きな理由だったかもしれないが、それでも立派に一人の騎士に育ったのだから、妻側も精一杯の譲歩を見せたのだろう。

フォルタン家の人たちはみんながみんな、人間臭くてどうしようもないが、それと同時に皆優しくて互いを愛し合っていたんだと思う。だから妻は夫を許せないし、夫は不義の子を捨てきれないし、息子たちは母を慮りつつももう一人の兄弟を受け入れようとしていた。

そういう環境であることを理解したうえで、オルシュファンは騎士の末裔らしくイイ騎士であろうとし、そしてその目標を全うした。それはたぶん父親からの教えでもあったし、彼を家族として精一杯受け入れようとしたフォルタン家へ報いる方法でもあったのかなと考えてしまう。

オルシュファンは愛情をもらうよりあげる派だったのかな

個人的にオルシュファンのことを大好きになってしまうのは、自分に与えられた限りある愛情を何十倍にもして、めいっぱい冒険者やアルフィノ、タタルさんに注いでくれたことを知っているからだ。
自分の地位が危うくなるかもしれなくても、「雪の家」を提供してくれた心強さも知っているし、イシュガルドに入ることができたのも彼の力添えあってこそ。

だが彼がそうやって協力してくれたのは「彼自身の友の無実を信じてくれたから」という理由で、彼に対して何かしてあげたからではないというのがまた泣ける。
オルシュファンは自分を大事にする以上に、自分が大切にしている人たちのために愛を向けてくれる人に、もっとたくさんの愛を返してくれる人だ。
彼は自分が比較的貴族の不義の子として生まれてきた割には、恵まれた環境にいると思っていたのかもしれないし、自分が大切にしている人を自分のことのように思える人だったのかもしれない。

オルシュファンはいっぱい冒険者である私に愛情を向けてくれたのに、それをひとつも返すタイミングがなく、もらいっぱなしで終わってしまったから、彼のことが忘れられなくなってしまう。
この物語は冒険者がもたらした大きなイシュガルドの変革があってこそだが、その変革を巻き起こした張本人こそオルシュファンだ。

本当ならオルシュファンこそ、イシュガルドのこれからに絶対必要だった。
アイメリクがあそこまでへこむのは、もちろん自分が死の原因の一旦を担ったことはあると思うが、それ以上に重要かつ必要な人材であり、自分と似た理想と境遇を持った人を亡くしたことも理由だったと思う。
オルシュファンは冒険者が「光の戦士」と呼ばれていても「友である」という地位を超越したものの見方をする人だったから、もし生きていたらアイメリクの良い相談相手になっていただろう。本当に惜しい。

だが惜しいと考えているのは家族だったフォルタン伯やアルトアレール、エマネランも同じ考えだったはずで、だからフォルタン伯は忘れないために回顧録を書いたのだろうし、アルトアレールはやエマネランはいやおうなしに未来を考えることになるだろう。

そう、忘れかけていたけれどこの蒼天のイシュガルド、冒頭には「フォルタン伯の回顧録である」ということが明確に書かれていた。
今更気づいたがこの回顧録は光の戦士たちがホームステイしたというフォルタン伯の単純な日記的なものではなく、自らの息子の生きた証を輝かしく残すためのものだったんだなと合点がいった。
フォルタン伯は回顧録という形で、息子とその友人の旅路をイシュガルドの歴史に刻み込んだんだな……。

どんどん増える呪いがつらい

オルシュファンの死は、たくさんのヒカセンにとって忘れられない出来事だが、この世界の中の人たちにとっても当然同じことであり、また一つの呪いにもなった。
いろんな呪いがあるけれど「笑っていてほしい」なんてなんて残酷な呪いだろう。

ゲイリーが父マイケルの呪いから逃れられなかったように、私はFF14をやる限りオルシュファンの呪いからは逃れられない。多分定期的にオルシュファンを思い出し「くそ~~~~最後を見届けるまではやめられねぇ~!!」って言うに違いない。
まだそういう反応は何も見れていないが、フォルタン家の人たちも同じ気持ちになっているんだろうなと思うとやるせなさが増す。

しかしこんなにうだうだ長く話していても、誰かに呪いを残す強烈な人間って良いなとばかり考えてしまう。
蒼天はオルシュファンだったけれど、多分次の紅蓮はまた別の奴に呪いをかけられるんだろうなとすでに覚悟している。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?