【雑記】認知の話なのかもと言う話

アシエン・エリディブスはミンフィリアにこんなことを言っている。

???? : ほう、私の姿を認識できるか。 ……やはり「超える力」の持ち主なのだな。

失われし伝承と存在 カットシーン2より

で、思った。

これblood borneで見たことある!!!

「青ざめた血を求めよ、狩りを全うするために」といえばblood borne。
blood borneといえば、啓蒙、つまり認知の話だと私は思っている。
bloodborneはずーっとこの「認知」の話をしていて、たとえばこんなイベントがある。

主人公である狩人さんは、あるときオドン教会という場所に行く。
そこは普通の教会(まあ全然普通ではない)なのだが、到着した瞬間に狩人さんは何かに持ち上げられ、潰され殺されてしまう。

ところが、ストーリーを進めるか狩人さんの「啓蒙」が高まった状態でオドン教会へ向かうと、そこには何やらおぞましいものが絡みついているのが見えるようになる。
そう、狩人さんを捕まえてぶっ潰し、殺したのはこのおぞましい何かだった。
啓蒙という力が高まると、そこにあったけれど見えなかったものが見えてくるのだ。(だが高まりすぎると死ぬ。これも面白い)

bloodborneにおける「啓蒙」は、ゲーム内通貨の役割も果たしている。
だが、ただゲーム内通貨であるだけでなくそこに意味を持たせてくるところがフロムゲーのフロムゲーたる所以なのだろう。

で、この啓蒙こそが「認知」であり、認知というのがすなわちアシエン・エリディブスのいう認識のことだと思う。

ミンフィリアはアシエンという存在を認知している。それがどういう存在か知っている。だからアシエン・エリディブスを認知することができた。
bloodborne的に言えば、彼女は超える力を使って啓蒙が高まっているから、他の人には見えないものや感じられないものを認知できると思えば分かりやすい。
彼女や冒険者だけが超える力という特殊なメガネをかけているのだ。

bloodborneの場合もFF14の場合も、難しい話のように思えて、実際は全くそんなことはない。要するに先ほど書いた通り「どんな眼鏡を通じて世界を見ているのか」というだけの話だと思う。

この眼鏡にあたる部分が、FF14の場合は「超える力」であり、ただ認識するだけではない、その先の能力と紐づけられている。今のところこの力を明確に持っていると(私が進行中のストーリー内で明確に描かれているのは)、ミンフィリアと冒険者、クルルだけだ。
どうやら意外と限られた力でもないかもしれないから、これからどんどん増えてくるかもしれないし、人工ニュータイプみたいに後天的になる人もいるかもしれない。
むしろこの越える力がなくとも、アシエンと言う存在がいると認知すれば、彼らをはっきり認知できるようになるのではないか、と思う。それ以外の部分は違いがあるだろうが。)

ところがそもそも「超える力」とは何なのか。ゲーム内ではイマイチ判然としない。
それどころか、そもそもミンフィリアもよく分かっていない。ハイデリンと交信することができるとか、様々な壁を超えることができ、相互理解を進める能力であるみたいに言われているけれど、そのどれもこれもがイマイチピンとこない、みたいな扱いになっている。

コンタクトレンズを使っているのか、眼鏡を使っているのか、それとも度入りサングラスか、みたいな感じだが、その正体はぼんやりしていて分からない。
というかここが話の核心なんだから、最後まで明かされなくて当然なのだが。

そういえば bloodborneに似た話で少女革命ウテナっていうアニメもあった。

「棺の中の少女」理論

ウテナでは作中に「棺の中の少女」という概念が存在する。
物語の中では主人公のウテナが「棺の中の少女である」とされている。
ところが、9話か10話の中でこの「棺の中の少女」がウテナの友人であるアンシーにすり替わっていることがある。

これは(ここは個人的な考察なので、間違っているかもしれないが)あるキャラクターの「棺の中の少女」という概念にアンシーを当てはめているから、劇中でもそうなってしまうのだと思う。

つまり、私がもしも「棺の中の少女」がアルフィノであると考えよう。
そう考えて棺をひらくと、「棺の中の少女はアルフィノになる」。

アルフィノは男の子だとか、そもそも少女革命ウテナの登場人物ではないとか言いたいことはいっぱいあると思う。
だがその瞬間、私の中で「棺の中の少女」と「アルフィノ」に関係性を持たせた瞬間、作中の現実ではそうなる。

で、冒頭のアシエン・エリディブスのセリフをもう一度見てみる。

???? : ほう、私の姿を認識できるか。 ……やはり「超える力」の持ち主なのだな。

失われし伝承と存在 カットシーン2より

アシエン・エリディブスの言いたいことって、突き詰めるとこういうことなんじゃね???と思えてならないのだ。

繰り返しになるが、ミンフィリアはアシエンと言う存在を認知している。世界のどこかに必ず存在していると理解している。
世界と言う棺の中に、アシエンが必ず入っていることを彼女は知っているのだ。

だから、アシエンを知らない(理解していない)人々に見えないはずのアシエン・エリディブスが、ミンフィリアには見える。
彼女は「棺の中の少女」に「アシエン」を繋げてしまったから認識できたのではないか。
それは我々光の戦士、作中の冒険者も同じことだ。

まとめ

ここまでの話を簡単にまとめてみる。

  • 超える力とは認知の力である。

  • 認知することによりつながりができ、我々が思う通りに「そう」なる。

ただこれを言いたいだけなのに、随分遠回りしちゃったなあ。

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