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【管弦楽の魔術師】エクトル・ベルリオーズ | 知的ストック_クラシックNO.32

エクトル・ベルリオーズは、「管弦楽法の魔術師」とも称され、オーケストレーションの分野で画期的な影響を与えました。

彼の『近代器楽法とオーケストレーション』は、楽器の特性を活かした独創的なアレンジメントや音響効果を体系的にまとめたものとして、後の作曲家たちにとって重要な指南書となりました。ベルリオーズは大規模なオーケストラを自在に操り、楽器の組み合わせ方や新しい音色の探求において非常に先駆的であったことが知られています。

現代では彼の音楽はベートーヴェンやモーツァルト、バッハのように常に目立つ存在ではないかもしれません。理由としては、ベルリオーズの作品が時代や音楽の潮流に合わなかったこと、その独特なスタイルが万人に受け入れられなかったことが挙げられます。彼の音楽はしばしば「過剰」や「感情的すぎる」と評価され、19世紀のフランス音楽界では賛否両論がありました。

また、ベルリオーズは当時のフランス国内での地位があまり高くなかったことも彼の影響力を制限した要因です。

それでもベルリオーズは、リストやワーグナー、さらにはマーラーやリヒャルト・シュトラウスといった後世の作曲家たちに多大な影響を与えました。なかでもリストは、ベルリオーズの「固定楽想」の概念を自身の「交響詩」の発展に取り入れ、ワーグナーもベルリオーズの大胆なオーケストレーション技術から学びました。

リストに関して言えば、彼はベルリオーズと深い親交を持ち、ベルリオーズの音楽を、自身が演奏や指揮を通じて広めたことで知られています。端的に言えば、親友関係で、ベルリオーズの経済的支援をリストがしていた時期があるほどだと言います。

本記事では、そんなワーグナーの『幻想交響曲』について学びます。正直に申し上げますが、私もまったくわかりません。ほとんど聴いてもいません。これを書きながら、本を読みながら、同時に聴く、ということです。ぜひ、一緒に学んでいきましょう。


ベルリオーズとは

エクトル・ベルリオーズ(Hector Berlioz, 1803年12月11日 - 1869年3月8日)は、フランスの作曲家、指揮者、音楽評論家で、ロマン派(1820年 - 1900年頃)音楽を代表する重要な人物です。

幼少期と教育

ベルリオーズは、フランスの南部にある、ラ・コート=サンタンドレで、医師である父ルイと、弁護士一族である母マリー・アントワネット・ジョセフィーヌ・マルミオンとの間に、第一子として誕生します。

ベルリオーズが初めて音楽教育を受けたのは12歳の頃、父がフルートの演奏や、楽譜の書き方を教えてくれたそうです。ベートーヴェンやモーツァルトといった偉大な音楽家が5歳前後で音楽を始めているのに比べると、とても遅いスタートだったと言えるかもしれません。

ベルリオーズは13歳から作曲を本格的に始め、15歳でギターに夢中になります。しかし、家族は彼に医師としての道を歩ませることを望んでおり、17歳のとき、両親は彼をパリ大学医学部に進学させました。

そうして神学のためのパリに移ったベルリオーズは、医学ではなく、オペラ座でオペラに心を奪われます。グルックのオペラに強い感銘を受け、音楽への情熱がさらに強まったそうです。彼は医学の勉強をしながらも、音楽の勉強を並行して行い、作曲家としてのキャリアを模索し始めました。

22歳の頃、彼はフランス芸術アカデミーが主催する「ローマ大賞」に挑戦します。ローマ大賞とは、1663年に設立され、もともとは画家、彫刻家、建築家、作曲家など、芸術家のための「奨学金」として機能していました。受賞者には、ローマにあるフランス・アカデミーであるヴィラ・メディチで数年間の滞在が認められ、そこで創作活動に励む機会が与えられるのです。

さて、さっそく結果や如何に・・・?

彼の「ローマ大賞」初挑戦は、結論から述べれば、「予選落ち」という残念な結果に終わってしまいました。この経験から、彼はパリ大学院への進学を決め、ル・シュウールやライヒャに師事、より音楽の勉強に励むのでした。

余談ですが、ベルリオーズは当時の多くの若手芸術家と同様、経済的な苦境に立たされていたとされています。彼の家族、特に父親はベルリオーズが医学の道を捨てたことに強く反対し、彼の経済的支援を打ち切り(ゼロではない?)ました。これにより彼は自力で生計を立てる必要が生じたそうです。

ベルリオーズはパリ音楽院の生徒であったため、学業を通じて得た人脈を活かし、時には友人や支援者からの金銭的援助を受けることもあったそう。

(2-4回目の「ローマ大賞」挑戦と、その間に作曲した楽曲は今回学ばない。そのためここは書籍をスキップして5回目の挑戦の年に進む)


一度目の運命の年、1830年

1830年、26歳になったベルリオーズは、5回目の挑戦で遂に「ローマ大賞の一等賞」を受賞します。この時、彼が作曲し提出したのは『Sardanapale(カンタータ:サルダナパールの死)』です。この受賞により、彼はフランス政府から奨学金を受け、ローマにあるフランス・アカデミー(ヴィラ・メディチ)で数年間の滞在を許され、創作活動に励む機会を得ます。

さらに同年、ベルリオーズは彼の最も有名な作品である『Symphonie Fantastique(幻想交響曲)』を作曲します。この曲の誕生エピソードが可愛らしいので、少しだけ紹介して本記事を閉じたいと思います。

遡ること約三年、1827年のことです。彼のいるパリにイギリス劇団がやってきます。その劇団は、イギリスの女優ハリエット・スミスソンが率いるもので、シェイクスピア作品を上演するためにやってきたのです

この時スミスソンらは、シェイクスピアの『ハムレット』や『ロミオとジュリエット』などを演じ、ベルリオーズはその演技に魅了されます。なかでも彼は、スミスソンが『オフィーリア』役を演じた『ハムレット』の公演に感銘を受け、彼女に対する激しい恋心を抱くことになりました。

ベルリオーズは、自伝や手紙の中で、スミスソンがシェイクスピアの役を演じるのを見て、彼女の演技がどれほど彼の心を動かし、彼の創作意欲をかき立てたかを語っています。

"Her acting opened a new world of passion and drama to me. The intensity of her performance and the depth of Shakespeare's words combined to shake the very foundations of my soul."

彼女の演技は、私に情熱とドラマの新しい世界を開いてくれた。その演技の激しさと、シェイクスピアの言葉の深みが結びつき、私の魂の奥深くを揺さぶった。


さて、そんな彼の恋の行方は如何に・・・いやいや、相手は女優です。「ローマ大賞で一等賞を受賞した勢いそのままに!」とはいきません。有名女優であるスミソンが、無名であるベルリオーズを相手にするはずもない。儚・・・くはないですね、大それた夢は当然のように散ってしまいます。

(ちなみにこの話には「すんごい後日談」があるので、気になる方は調べて見てください)

しかしなんと、この失恋が、彼の創作意欲をさらに燃え上がらせ、『幻想交響曲』という、音楽史に残る傑作を生み出すきっかけとなります。面白いですよね。この曲は、「音楽の中で感情や物語を表現する」という革命的な手法を用いており、その大胆な表現が当時の音楽界に衝撃を与えました。

(ちなみに『幻想交響曲』の次の作品も高く評価されているそうなのですが、作曲の動機がある意味で同じです。私は「テイラー・スイフトか?」とツッコミましたね)


幻想交響曲

ベルリオーズの『幻想交響曲』は、1830年に作曲された、全5楽章から成る革新的なプログラム交響曲です。物語や感情の進行を音楽で描写し、「標題音楽としてのジャンルを開拓した作品(!?)」でもあります。

《幻想交響曲》はその時代のオーケストラの表現力を最大限に引き出し、従来の形式を超えた独自のスタイルを確立しています。以下に各楽章の音楽的特徴を解説します。

第1楽章「夢、情熱」

この楽章はソナタ形式で書かれており、作曲者自身の内面的な葛藤や心情の高まりを象徴しています。冒頭では静かな序奏があり、夢見るような旋律が提示されます。その後、主題が展開され、次第に劇的な展開を見せ、感情が高揚していきます。特にここで登場する「イデー・フィクス(固定楽想)」が、全体を通じて重要な役割を果たします。これは、特定のアイデアや人物を象徴する旋律で、各楽章に登場してさまざまな形で変容します。

第2楽章「舞踏会」

この楽章はワルツのリズムを持ち、華やかなオーケストラの色彩が特徴的です。音楽的には、軽快なダンス音楽として描かれ、イデー・フィクスも軽やかに変奏されます。ベルリオーズはハープやピッコロを効果的に使い、舞踏会の雰囲気を鮮やかに描写しています。

第3楽章「野の風景」

牧歌的な風景を描写した楽章で、木管楽器や弦楽器による自然描写が印象的です。特にオーボエとコーラングレの掛け合いが、田園風景とその平穏を象徴しています。ここでもイデー・フィクスが登場し、主人公の感情が自然と対話しているかのように表現されます。

第4楽章「断頭台への行進」

この楽章はマーチの形式で、重々しいリズムが特徴的です。ベルリオーズは低音楽器を効果的に使い、劇的かつ不穏な行進を描きます。ここでもイデー・フィクスが登場し、最後に短く現れて、断頭台での運命を象徴するかのように唐突に中断されます。この手法は、緊張感と運命の回避不能さを強調しています。

第5楽章「魔女の夜宴の夢」

最終楽章は幻想的かつ怪奇的な雰囲気で、ベルリオーズの独創的なオーケストレーションが光ります。狂気じみた旋律や不協和音、変拍子などを駆使して、主人公が見た悪夢を描きます。この楽章では、イデー・フィクスが完全に変容し、嘲笑的なリズムで現れ、風刺的に扱われています。また、グレゴリオ聖歌の「怒りの日(Dies Irae)」の旋律が引用され、死と破壊のテーマを暗示します。


この曲の凄さ

ベルリオーズの《幻想交響曲》の革新を理解するためには、従来の交響曲と比較すると、そのすごさが見えてきます。

ビフォー:従来の交響曲

モーツァルトやベートーヴェンなどの作曲家が書いた交響曲は、伝統的な形式(ソナタ形式、メヌエット形式など)を用い、主に抽象的な音楽を表現していました。感情や情景を表現することはあっても、それはリスナーの想像に委ねられていました。また、オーケストラの編成も比較的標準化されていて、あまり大きくは変わらず、楽器の役割も限定的でした。

アフター:ベルリオーズの革新

ベルリオーズは《幻想交響曲》で、オーケストラを使った音響の表現力を大きく拡張しました。

  1. プログラム音楽の開拓:まず始めに特筆すべきは、彼が物語や情景を音楽で直接描く「標題音楽」のジャンルを開拓したことです。従来の交響曲が抽象的な音楽だったのに対し、ベルリオーズは具体的な物語を音楽で語ろうとしました。リスナーに、主人公の感情や出来事を直接音楽で感じさせるという新しい試みです。

  2. イデー・フィクス(固定楽想)の導入:ベートーヴェンなどの作品でもモチーフが繰り返されることはありましたが、ベルリオーズは「イデー・フィクス」という、「特定の旋律を全5楽章を通じて何度も登場」させ、物語の進行に応じて変容させるという新しい手法を採用しました。これにより、単なる繰り返しではなく、音楽がキャラクターやテーマの変化を象徴する役割を持つようになったのです。

  3. オーケストラの音響的拡張:楽器の使い方も革新でした。例えば、ベルリオーズはオーケストラにハープやイングリッシュホルン、ピッコロといった珍しい楽器を加え、より豊かな音色のパレットを作り出しました。また、舞台裏でのベルの使用や、不協和音や突拍子もないリズムなど、従来の交響曲ではあまり見られなかった大胆な効果音を取り入れています。

結論

このように、ベルリオーズは従来の交響曲の形式と音響表現を大きく超え、オーケストラの可能性を広げ、標題音楽の先駆者として新たな音楽表現を切り開いたのです。それが《幻想交響曲》のすごさです。

(今回は『幻想交響曲』を学びたいだけなので、その他はまた別の機会に)


さあ、聴いてみよう♪

1.Berlioz : Symphonie fantastique,  Carlo Zecchi / Czech Philharmonic 1959

1st movement 00:00
2nd 13:47
3rd 20:17
4th 37:26
5th 42:50

Carlo Zecchi / Czech Philharmonic
Recording: 4/1959 Praha

ベルリオーズ:幻想交響曲
カルロ・ゼッキ指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
1959年4月 プラハ芸術の家にて録音

※豪放な個性派指揮者ゼッキの代表盤。
 チェコ・フィルハーモニーと残した唯一の録音です。


2.Berlioz : Symphony Fantastic C.Davis / BRSO 1987 live

1st movement 00:00
2nd 15:54
3rd 22:36
4th 41:34
5th 48:36

Colin Davis / Bavarian Radio Symphony Orchestra 15/1/1987 Munchen, Gasteig Hall live recording

ベルリオーズ:幻想交響曲
コリン・デイヴィス指揮
バイエルン放送交響楽団
1987年1月15日
ミュンヘン、ガスタイクホール
ライブ録音

※デイヴィス十八番の「幻想」のバイエルン時代の圧倒的ライブ。
 第2楽章はコルネットの活躍が際立っています。
 彼の指揮芸術の真髄は兎に角、美麗に音楽を奏でる、という辣腕にある。



付録

1. ベルリオーズと同時期に活躍したフランスの哲学者

50.オーギュスト・コント (Auguste Comte, 1798–1857)
ベルリオーズの時代における代表的な哲学者の一人です。コントは社会学の創設者とされ、特に実証主義(ポジティヴィズム)の提唱者として知られています。彼は社会を科学的に分析し、人類の進歩を理解しようと試みました。コントの思想は、フランス革命後の不安定な社会において、秩序を回復するための理論として注目されました。

N/A.ヴィクトル・クーザン (Victor Cousin, 1792–1867)
ベルリオーズの時代のもう一人の有名なフランス哲学者です。クーザンは、フランスの教育制度に大きな影響を与えた哲学者であり、自由意志の擁護者でもありました。彼はフランス理性主義哲学の重要な人物で、ベルリオーズが生きた時代のフランス知識人社会に影響を与えました。

2. ベルリオーズと同時期に活躍した歴史上の人物

ナポレオン・ボナパルト (Napoléon Bonaparte, 1769–1821)
ベルリオーズが生まれた時、ナポレオンはすでにフランス革命の軍司令官として名を馳せており、1804年にはフランスの皇帝として即位しました。彼の軍事遠征や政治改革はヨーロッパ全体に影響を与え、ベルリオーズの幼少期にはナポレオンの影響が色濃く残っていました。

ヴィクトル・ユーゴー (Victor Hugo, 1802–1885)
ベルリオーズとほぼ同時期に生まれ、文学の分野で活躍したフランスの作家です。ユーゴーは、『レ・ミゼラブル』や『ノートルダム・ド・パリ』で知られており、19世紀フランスのロマン主義運動における重要な人物です。彼の作品はフランス社会の変動と人間性に関する深い洞察を含んでおり、ベルリオーズと同じ文化的時代を代表しています。

ルイ=ナポレオン・ボナパルト (Louis-Napoléon Bonaparte, 1808–1873)
ナポレオン1世の甥で、後にナポレオン3世としてフランスの皇帝となりました。1848年にフランス大統領に選出され、1852年に帝政を復活させた彼の治世は、ベルリオーズの晩年と重なっています。ナポレオン3世の時代には、産業の発展と都市の再建(特にパリの改造)が進みました。

3. ベルリオーズが生きた時代の出来事

フランス革命の余波とナポレオン戦争 (1789–1815)
ベルリオーズが生まれた直後、フランス革命が終息し、ナポレオンが台頭していました。ナポレオン戦争は1815年のワーテルローの戦いで終結し、その後、フランスは王政復古期に入りました。

フランス七月革命 (1830)
ベルリオーズの作曲活動が本格化し始めた1830年、フランスではブルボン王朝に対する民衆の不満が高まり、七月革命が勃発しました。この革命によって、シャルル10世が退位し、ルイ・フィリップが王に即位しました。ベルリオーズ自身もこの革命に触発され、交響曲『幻想交響曲』を作曲しました。

産業革命の進展 (18世紀末〜19世紀)
ヨーロッパ全体で産業革命が進行し、イギリスやフランスでは経済の工業化が急速に進みました。鉄道の敷設や蒸気機関の発明などが社会に大きな変革をもたらしました。これにより、都市化が進み、社会問題が浮き彫りになりました。

フランス二月革命 (1848)
ベルリオーズが活躍していた時代の後半には、1848年のフランス二月革命が起こり、ルイ・フィリップの王政が崩壊し、第二共和政が成立しました。ベルリオーズは、この革命の影響下で活動を続けていました。

ベルリオーズはこうした激動の時代を生き、彼の音楽は当時の政治的、文化的な変革と深い関わりを持っています。


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