疲れが一気に噴き出ると起き上がれない

ただただ純粋疲労

最近ものもらいができて仕事中あまりにも痛み、早退して医者に診てもらってもいいか上司に尋ねたところ死ぬほど渋られ嫌味を言われ、

・辞めると言い出したからそのような態度に出られた
のか
・体調不良一つでここまで渋られる職場なら辞めて正解
なのか

卵と鶏みたいな自問自答を職場向いの眼科の待合室で悶々と考えてしまったり。
幸いにも受付から診療、会計までに30分も要さず(多分)激近の薬局もスピード対応で鎮痛剤服用のための水までいただけて結局その日のシフトの残業まできっちりこなせました。
平日外午後の初診とかいう点数の多そうな状況でも金がもらえるからか、お医者さんは優しく「難しいと思うけどね、ものもらいってやっぱり抵抗力が落ちてる時にできるから結局休養が一番大事なのよ」と諭されたり。やっぱり金も無いのに労力がかかるのは精神衛生にもよくないかぁ、というか単純に自分の不向きをまた一つ発見できてよかったなぁ、みたいな。

表面上だけでも心配する振りをできる大人になりたい。
でもそれ以上にそれができない人間の余裕のなさを慮れるようにもなりたい。
そうなるにはまだ自分は余裕がなさすぎるなぁ。
とか、とか、とか。

自分が一人の人間として歩み始められたのが信じられないことに今年からなので(体感)三十路超えてからようやく自分という人間の得手不得手等が見え始めるという人間水準マイナス数千キロ地点のスタートだけど、それもそれで一つの経験じゃない?順風満帆でやっていく人間とは異なる視点から見る景色によって与えられる自分の思想に対する影響はまたなにか人とは違ったものにもなるんじゃないの?
なんて感じでだましだましやっています。
まぁいいです、とりあえず現職の雇用契約終了日も次職の雇用契約開始日も確定しているので(賃金は相変わらず低いですが)。でも不思議と自分で選び取ってる感覚というのは面白い気がする。金があるからそう言えるだけで無かったら言えないです、それもまた自分の余裕のなさの一つ。

そんな感じでやはり「条件だけで言えば前職は神だなぁ」と思わざるを得ない局面も最近結構多い、精神面さえ安定していればずっとい続けられた気がする。
でも私がその価値を分かっていなかったからうっかり手放してしまったし、かといってその価値に気づけたのも今の職場に転職したからだし。

今「かち」って打ったらトロフィーやメダルの絵文字が変換候補に上がってきて「『勝ち』と『価値』を兼ねてるなぁ」
とか
「『東風』と書いて『こち』と読むよなぁ」
「でもやっぱり『トンプウ』かなぁ」
「長らくネット麻雀してないなぁ」
「今やるんだったら点数計算とかも学び直す?」
とか関係無いことがどんどん頭のなかでぐるぐるしてきて、そのことが心と体が『無駄』に巻かれていることの証左たらしめている気もしてきて。て。て。
て。で終わることが多過ぎて私の考えることにはいつも結論が無いなぁと(と、で締めればいいってモンでも無いが)。

でも最近アウトプットが足りな過ぎて、やっぱりこういった「ドウデモイイコト」は何か形にして吐き出さないとやっていけない。それを疎かにするから結論を導くための筋道も立てられない気もするので。
こうして考えている時間、過去の自分だったら「知人にこうやって考える姿を見られたら『なんて空虚で無駄なことをしているんだろう』と思われないかな」とか考えて中途半端なところで強制終了してしまうこともあったけど、最近は垂れ流される思考を敢えて自分で止めずそのままにしてあげることもあります。
逆に「そっちの方向で思考を追及したらたとえ正論だろうと精神死ぬぞ!」と思ったら止めてあげるようにしている。自分の辛く無い方向へ思考の行方を補助してあげてる。

たとえ自分のことをよくわかってるのは自分より他人だったとしても、自分の思考を制御してあげられるのはやっぱり自分しかいないのは揺るぎない事実で。
辛いことを考え出したら「はいやめやめ〜、正論を追及して貰える金銭ないし金銭外報酬はありますか〜?」ってストップかけてあげることが自分自身に対するウェルビーイングなんじゃないか。と私は思った。私が思っただけなので他人は違うかもしれないけど、私は思ったのでそのように自己に働きかけているだけです。

という具合に最近は自己を尊重してあげています。
自己を尊重しないと自分の人生に対してすごく投げ遣りになってしまう。だから自分の趣味趣向も以前は「他人が見たらすごく愚かに思うだろうなぁ」「それでもやめられない自分は本当に愚かだ」と思って趣味に没頭することの気持ちよさと自責が常に隣り合わせで本当にそういう意味で楽しさのリソースを全部自己帳消ししてしまって(今書きながら思い出し泣きしかけてる)、でも結局それも全て脳内親を自分の中で育て過ぎてしまった(それが生体防御反応じみている自覚も有り)結果であることも今は判ったうえで(以前は理解しながらも過去の傷に取り込まれて精神死にがちだった)「いや〜大変でしたね〜」「事実大変でしたわ〜」「どう足掻いても大変でしか無かった〜」と自分で自分の肩をポンポン叩いてあげたりもできる。
それも今思い返すとやっぱり勇気を出して精神科医や復職支援施設のリワーク担当者やカウンセラーの前で泣きながらでも話して、そのことに対して何故か自分以上に動揺したり寄り添われたりした結果だったりするので、結局自己開示はどこかでしなければならない。自分の本当の気持ちはどこかで表現してそれに対して良くも悪くも他者から評価を貰わないと前に進めないという学びにもなりました。
大体そこで吹っ切れると「タスクが一つ完了した」とばかりに自己意思が前進を強く望むのでね。ごにょごにょごちゃごちゃしていることは他人の手を借りてでも解決した方がいいっていう、人と人との関係は迷惑の掛け合いだから迷惑をかける側を責めても始まらないぜっていう。

という良くも悪くも自分に対して甘いのが最近の自分です。
自己に対する無駄な厳しさの不要性に気付いてしまったのだね。
卯年を乗り越え辰年を迎えた本年、精神的兎跳びから卒業します。

でも肉体労働と思考のハイブリッドが削ったリソースは大きくて。

今日というせっかくの休日も。

目が覚めては数秒後に目が閉じるを繰り返し。
17時にのろのろ起き上がって色々掃除したり、カップ麺(チリトマトカップヌードルPRO)をようやく口に運んだりできたというレベルで。

よくぞ休養できました百点満点はなまる〜〜!!!
という感じでこれからようやくお風呂です。
風呂に入ったらもう寝ます。
寝られる私、すごい。
屋根の下で風呂上がりに布団を被って横になり入眠できる安全性の確保されたこの国、マジですごい。

多少のことは、目を瞑ろう。

(今日も思考停止で色々書いているので、話に一貫性を持たせられませんでした)

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