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ハマかぶれ日記217〜中学総体の季節

 体の奥の方からずーんと込み上げる重い痛みが腰に出ている。しばらく眠っていた持病のぎっくり腰の虫がもぞもぞと蠢き始めたようだ。昨年も6月から7月にかけて発症し、整形外科病院に毎日のように通った。蠢くだけでとどまってもらいたいところだが、とにかく腰に負担をかけず、虫のご機嫌取りをして静養するしか対抗手段はない。このブログ日記をつけるための1時間ぐらいは机に向かってもいいだろうと勝手に診断して、パソコンを叩き始めた。
 何がきっかけかは分からないものの、10日ほど前から気配は感じていた。今朝になって危うさを感じるレベルまで症状が引き上がったのは、昨日、中3の息子の剣道の試合を硬い観客席に座り、7時間余りも観戦していたからだ。観客コーナーは子供達の親でぎっしりで、大半が立ち見。早く行って確保したスペースを簡単に譲り渡すわけにはいかず、隣の人にしばしの席番をお願いしてトイレに立つ以外は、座り通した。そのうち案の定、腰がしくしくしてくる。痔疾に悩んでいた頃ならダブルパンチで、それに比べれば全然マシと気を励まし励まし、座り通したのだ。時間を追うごとに虫の動きは活発化した。
 息子の試合は夏の全国中学総体の予選を兼ねた杉並、中野、練馬3区のブロック大会。個人も団体もベスト8に入れば、次の都大会進出が確定する。中学の部活の集大成となる重要な一戦だった。
 息子の戦いぶりは、親バカチャンリンの話半分にしても立派だった。個人戦では1、2回戦を勝ち、都大会進出をかけた3回戦で、都大会優勝の常連で何度か全国制覇もしている強豪中学のシード選手に惜しくも負けたが、結構手数も出しており、かなりの善戦と言える内容だった。団体戦では、先鋒として1、2回戦できっちり勝ってベスト8へ。都大会出場のチームの牽引役をしっかり果たした。
 ふだんは相手の出方を見てから攻める、おっとり刀土俵入りといった戦いぶりでポカも多いが、昨日は自分から積極的に仕掛ける勝負の早い剣道をした。気合が前面に出ていて、観ていても心地よい。「いい剣道をしている」と、先生方にもお褒めの言葉をいただいたようだ。
 残念というか笑っちゃうというか面白かったのは、健闘した個人戦で負けたのは、反則による1本だったということだ。コロナ禍以降、竹刀の鍔迫り合いとなった時は、いち早く離れなければならないルールの適用が厳格になり、この反則を2回繰り返すと1本取られたカウントとなる。それを実際に2回やって、試合を落としてしまった。「本人はあれぐらいで・・」と不満げだったが、大会終了後の閉会式で審査委員長がわざわざそのケースを取り上げ、「反則は損」と何度も選手たちを諌めていた。14歳にして堂々の反面教師になったんだから、えらいもんだ。
 式が終わって引き上げてきた時、「おい、反則王! ブラッシー!」と笑いながら声をかけたら、「何のこと?」と聞き返す。かつて伝説のプロレスラー、力道山(1924〜1963)との試合などで日本中をわかせた敵役の米国人、フレッド・ブラッシー(1918〜2003年)が相手に噛み付く反則攻撃で知られたことを説明すると、「ふん!」と言い捨ててそっぽを向き、チームメートとの談笑の輪に戻っていった。
 何はともあれ、チームとして都大会に進出できたのは本当に嬉しく、ホッとしたようだ。夜は8時台にはもう布団に潜り込み、あっという間に寝息を立てていた。前日は布団に入って1時間以上も寝付けずにいた様子だった。チームの副主将の立場であり、気持ちはよくわかる。
 ふと自分の時はどうだったかと、手元に残している同じ中3の時(1969年)の日記帳を開けると、7月30日の記述にそれはあった。「勝った。とうとう念願がかなった。団体戦では2位であったけれども、個人戦でとうとう4位以内に入った」「本当にうれしい。帰りのバスの中でも、ただうれしさに酔っていた」。当時、故郷の香川の町立中学で卓球部の主将をしていた。中学総体の県大会進出をかけた郡の予選で、優勝が条件の団体戦は進出がかなわなかったものの、4位以内が条件の個人戦で進出を果たしたのだ。息子とは逆に個人成績に舞い上がっていた。
 55年前の自分の思いに、歳の離れた息子の胸の内をクロスさせて、寝顔を覗き込んでいた。悪い冗談、ごめんな。反則負けもいつかきっと芳しい思い出になるよ。
 剣道観戦中に、わが横浜ベイスターズのデーゲームはあっけなく終わっていた。中日ドラゴンズに3対0の完封負け。こちらは特に、コメントもない。ああ、腰がうずく。
 

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