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詩にぶつかる、書く


 このところ少し潔癖が過ぎる、と感じていた。今も多少そうだ。
 そんな言い方をして、言葉に酔っていやしないか、と冷めた頭が画面越しに見つめ返してくる。

 抜け出したつもりがまた、これでは、どんなに望んだ場所でも、どんなに望んだ相手でも、どんなに望んだ機会でも、あるいはそうであるからこそ、自分を平気で置き去りにしそうだった。

 やっとのびのびと書けるようになってきたのに、やっとすきなように服を着られるようになってきたのに、やっとものが言えるようになってきたのに。

 この力の入り方はよくない。けど、ほんとうに力をゆるめていいんだろうか?たくさん間違えた私が、今ここでゆるめてしまって大丈夫だろうか?
 また間違えてしまわないだろうか。

 物語を読むことやそのなかの台詞を拾うことは、生きているあいだの流れを掬って、厳しいことや汚いことが当たり前にある今を、少しでも澄んだ呼吸のしやすいところにすることに繋がっている。
 そういう場所であったなら、どれだけ見たくない物を見たとしても、生き続けられる。

 しかし、そうした汚いことや見たくない物は、すぐそばに、何なら自分の中にもあって、それをあってよしとしながら流れを清くする術をもたないから、順調に輝かしく流れていく生と、自分とがばらばらになってしまいそうだった。

 それで読んだ詩だったから、詩に寄せたあとがきだったから、しばらく動くこともなく、目の前にある言葉に自分が開かれたように感じたのだろう。その場にとどまることができた。とどまる場所がほしかった。

 おまけに、言葉を費やすことを、もっと言うならその言葉の密度や重さで人が苦しんでしまうことを、恐れていて、それでも自分が持ちうるのは言葉であって、そこでいつでも立ちすくむけれど、やはりその、何かを伝えなくてはと、今あるなにかに言葉をあててどうにかして他の誰かにも形を見えるようにする取り組みは、それだけは譲れないというか譲らなくていいんだと、思った。

 あの詩集にはそういうことが書いてあると、私は思ったみたいだ。
 自分のことでもどこまでも他人事で、せめて自分が言葉にすれば書けば外には出る。書いたら、書けなかったことが出てくる。それを眺めては、笑う。そうしてまた書く、読む、を繰り返していれば、死なない。少なくとも生きていける。そしてそこにも愛がある。

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