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詩歌(しいか)


また詩の事

 「また」って言ったって、誰も前に書いた事覚えてないだろう。それでもまた。

 何度も何度も何度も何度も読んでいるうちに、詩から立ち上がる光景が、豊かになっていく。色も音も「ぼく」の心も記憶も温度も、言葉を新たに覚えた時のように、捉えられるなにかが増えていく。目が驚く。ついこの間まで、見えなかったのに。ぐんぐん拡張していく世界。言葉たちが持っている、元から備えている広がり。その限りないこと。【A】や【B】が、文字となった詩となったことでかつんかつんと響きあって、そもそも実はそこらじゅうに空気中に確かにばらばらに浮かんでいるのだけどそのままでは気が付かず素通りしてしまったりしていて、それらが〈ぱん!〉と響きあったことで空間が生まれ、それらの間にある見えなかったけど元々あったなにかが存在できる場所ができる。そこを見ている。詩を読んでいる時、詩に並ぶ言葉だけでなくて、そこも見ている。

 小さな本に向かっているだけで時間が過ぎてゆくのは、淋しい事でしょうか。私の足では辿り着き得ない雲の上や海の底まで見せてくれるのに。やっぱり言葉を好んでいます。言葉を好むこの生を好んでいます。



B面
「最果タヒ書店」へ行きました。
一度と言わず、何度でも。
その前にやっていた別の選書フェアも何度も、何店舗も巡りました。
熱に浮かされているのか、なんなのか。
けど行きたいから行っては、
じんとしていました。

詩集も気がつけば増えて。
前までは小説とエッセイを一冊ずつ持ち歩くことが多かったのですが、
今はそこに詩集が加えられました。
それぞれ役割がちがうから。
大きくなくってよかった、詩集。

詩のネオンサインの前で、
修学旅行中であろう三人組がインカメで写真を撮っていて、
きっと、
そこには詩の全体はまったく写らず、ほとんど彼女たちの笑顔だけだろうけれど、
めちゃくちゃいい写真だろうな、と思いました。


古今和歌集の仮名序の、
はじまりの、
「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、
よろづのことのはとぞなれりける」
(和歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける)
が、すきみたいです。
今朝…昼前だったか、ふっと思い出されました。
一時期よく聴いてたJ-POPのサビが突然思い出されるのと一緒です。
去年そういうことがあったので、手元に、岩波文庫創刊70年記念(1997年当時)特装版の『古今和歌集』があります。
古書店で(正確に言えば古書マーケットで)買いました。表紙が青くてかわいいです。

歌…詩…と、足りない文学の歴史知識と、
付け焼き刃でしかないネット検索で得た情報とで、思い巡らしてみています。
和歌と詩。
その時に生きた人たちが、その時にある言葉で、
のこしたなにか。
和歌や詩の形をした、なにか。

少し前に、「ふらんす」という雑誌を書店でめくってみたら、ある詩が目に留まりました。
ヴェルレーヌの
« Il pleure dans mon coeur »
あ、詩だな、と思った。
そのまんまなんですが。
きっとどこかで目にしたことがあるはずなんだけど…詩の、「主」が曖昧なところとか、けれど確かに書いた人がいた事とか、音の心地よさや詩だから出来る言葉選びとか、解説もあいまってようやっと、「あ、詩」と思った。
そういうことがありました。
しとしとと雨か、涙か、わからない雫が、円い…広場のような、あるいはそれが心のような石畳に染みて、冷えていく。夜に囲まれて、街灯のすぐそばだけが照らされて、あとは静かで黒い街。
「ほんとうはここに、誰かがいたはずなのかも」
「けれどもう、いない」

多くの、先輩方はとっくに気が付いていることでも、自分の実感として伴ってくると、やっぱりおもしろくて楽しいです。
こういうのは、実生活に…ご飯を食べたり、掃除をしたり、生きるだけでかかるお金や時間やあれこれを生み出したり、そういうことに直接は関わってこないかもしれない。
けれど、ずっと人間が必要としてきた。
それでじゅうぶんです。


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