今日の解離性障害者日記

こんばんは。

今日は解離性障害かは分かりませんが、よく考えることを言います。

私は本当に好きなことが分かりません。

表上好きな人でも、裏では好きかわからない。そういう個人的な事件があったので、「好き」の行動原理から推測しても「心」ではちゃんと頼ってるように感じてても、実際は何一つ頼ってなかった、何一つ受け止めてなかった、なんてことがありました。

私はゲームもよくやりますし、なんなら日課にしてます。
でも、それは私的に「人間を知るため」「人間に尽くすための最善手」と思った思想を見るためです。
よくあるソシャゲの「キャラ性」とか、ストーリーですね。
私にとっては教材なんです。

だから、そう思ってしまうからこそ、「好き」という気持ちがわからない。

だから、、生きたい理由は「ゲーム」でいいんじゃないのって言われて、
「ゲーム」は「生きれる」対価にはならないなんて感じてしまう。

仕事をする理由。
それは皆生きて幸せを求めるためと言いますが、私は「生きる理由」を、「仕事をする価値」を見いだせていない。
幸せになりたいと、そんな当たり前なことすら浮かばない。

ただ、他の人が私を生かすために何かしら貢ぐのであれば拒否することは無いのですが。

人々はわがままだ。
少なくとも私の出会った人々はわがままだ。
母は「死体処理が面倒だから」「責任を追及されるから」死なないでくれって言うし、
父は形見を渡してくるし、
悪友は現実と夢の認知を崩壊させたくせに、未だ生きろって言うし、
他の人も…私の言葉に勝手に浸透してるし。
社会はもっとワガママ。私の人格の改変を要求してくる。
…生きる価値がある人間だから生きろ、って、…君らのように「生きる理由」を作れちゃう人からしたら贅沢な悩みなんだろうね。

…自分である責任ってどうやったら持てばいいんだろうな

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