ユイスマンス「腐爛の華」の感想(Pさん)

 何か宗教に関する本を読みたくて、嫁さんに相談したら、ユイスマンスの「腐爛の華」を渡され、嫁さんの本棚にあったこの本を読み始めた。
 半ばあえてではあるかもしれないが、耽溺するように読んだ。二日で読み終えてしまった。そのぶん、読みが雑になってしまった部分もなくはなかった。けれども、その勢いで物語が流れ込んでくるのは、少なくとも自分の読み方の習慣としては、最近しないものだったし、いい経験になった。

 ユイスマンスといえば「さかしま」と言われるあのユイスマンスは、晩年キリスト教に改宗した。以後は、それまで書いてきた、絢爛たる想像力を足掛かりとした幻想と悪魔、よく「魔王」という単語も出てくるけれども、そういう世界は書かず、キリスト教に資するようなものを書くようになった、ということだ。この本も、リドヴィナという、聖女について、本当にいくつかの伝説を、資料に沿いつつもほんの少し自分の想像を交えたという程度の書き方をしている。
 キリスト教は、贖罪と受難の宗教だ、というのは、知識では知っていたが、彼女が言う「救われない人々の罪を禊ぎたいので、私にもっと肉体的苦しみを与えてほしい」という意味の数々のセリフは、どうにも信じがたいくらい、自分の知っている世界とはかけ離れている感覚を示していた。
 彼女の身体は、ふつうの人なら三回は死んでいるくらい、病気が重なっている状態だという。それにもかかわらず、死ぬことはなかった、不思議なのは、内臓が漏れ出して、腕がちぎれて細い糸のようなものでしか繋がっていない、それで死なないことはまだ理解できても、それで普通の声で喋ることが出来たというのは、想像力がねじれる、マジックリアリズムでも読んでいるような気分になる。
 その声で、「こんなものではまだ苦しみが足りない。もっと下さい」と主に祈って願うという。

 キリスト教は、いや、他の宗教にはない独特の特徴なのかどうかはわからないけれども、四つの聖書、これは確定した物語で、揺るぎのないものだが、誰かがキリスト教の何かについて語りたい場合には、ひとつには解釈を語ること、もう一つは、聖人伝としての物語、これを増改築することがなされる。
 聖書を書き換えることは出来ない。また、意図を捻じ曲げたり、無理に楽しませるような内容に書き換えることもできない。しかし、聖人伝はそれらを付け加えることができる。
 その結果、キリスト教においては、聖人伝はきらびやかで語られることが豊富にあるが、その中心となる聖書は、いわば無風地帯のような、真空のようなものとして、あるようになる。
 もう一つあった。解釈を語ること、外伝を作ること、それから、実際の行動として示すこと、たとえば建築において教会を立てるとか、具体的に自分の生活のどの場面でキリスト教を実践するかとか、誰かに話すとか、何を食べるとか、そういったこと。
 真空を真ん中に据え、その周りに巨大なごちゃごちゃした構造物がある、そんな見た目をしている。

 リドヴィナの受難において、神はその場で誰かの罪をリドヴィナの肉体的症状として現前させて、その罪と当分な苦しみとして与えるということを、その場でしている。
 周りで冷かしている人にしろ、心酔している人にしろ、神に関われているわけではない。関わっているのは、唯一、自分が持っている罪、あるいは功績の働きだけだ。それらが、神的世界に、歪みのような力の伝播をするのだが、罪あるいは功績はそれをなした人に見えているわけではない。
 リドヴィナは、神とわずかに会話することができる。天使とはよく話している。で、彼らに「もっと苦しみを下さい」というので、その望み通りに他人の罪を自分の苦しみとしてどんどん吸収していく。
 また、よい行いをしている人に対しては、そのままするがよいとか、それがこういう形であなたに返ってくるとか、そういう助言をする。
 この聖人譚の世界の中で、唯一能動的に動けているのはリドヴィナだけだ。

 これらの流れを俯瞰して、少なくともユイスマンスの受け取った、キリスト教徒はどんなものだったのか、もう少しで頭の中でまとまりそうではあるが、それが何であると言うことは難しい。

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