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僕だけ違う体操服


僕だけ違う体操服

数年間の海外での生活を終え、小6で日本の学校に転校した息子。運動会の練習が始まった時、帰宅後にこう言いました。
「僕の体操服って、前のデザインらしく僕だけ違うみたい。先生はそれでもいいって言ってたよ。」
何年も前の卒業生にお下がりで頂いた体操服を着用していたのだけれど、その間に変わったんだね。と話したこともすっかり忘れて迎えた運動会。
 
開会式で、1年生から6年生まで整列したのを見た時に、このやり取りを、はたと思い出したのです。そして、上だけが違うと思っていたら、下の短パンも違っていました。お弁当を食べに戻ってきた時に、気になって聞いてみると、息子はこう答えました。
 
「違うだけじゃん?嫌とかないけど?これまだ着れるしね〜」
 
わたしは何が気になっていたんだろう?
 

わたしが気になった「人との違い」

わたしが息子の状況ならば「違っていて恥ずかしい」と思うから、息子もそう思ってるんじゃないかと気になったわけです。とはいえ、わたしの中には「違っててもいい」という気持ちもあります。この「違っていたくない」と「違ってていい」が混在している中で、今回の出来事は後者が強く出たわけです。強く出たのは、わたしが子どもの頃に、自分だけが違うものを身に着けていて恥ずかしかった経験があるからかもしれません。
 
息子に聞いていると彼の中に「違うのが恥ずかしい」というのはなく、【人は違ってるのが当たり前】と思っているようです。海外生活の中で育まれたものだろうけれど、違うことに意味を付けないということは、そういう感覚なのかと思わされました。
 

変なあだ名を気にしない

また、長髪&メガネのこともあってか、転校当初から変なあだ名が付きました。そこから派生する色んなことがあって、学校を何日かお休みしたりもしました。わたしにできるのは話を聴くくらいです。あとは心と身体が元気になるようなご飯を作ることくらいかな。先日、帰宅後に、
 
「いいこと考えたの!気にしなければいいんだ!ってわかったの!」
 
と言うので、気にしないってどういうことかを聞いてみたら、
 
「あだ名で呼ばれたときは、何もしないの。返事もしないし、振り返ったりもしない。名前で呼ばれた時にだけ、返すの。そうするとね、僕に話すことがあるときは、名前で呼ぶようになるでしょ?あだ名で呼ぶと僕は聞かないから。あだ名で呼びたい揶揄いたいだけの人は、それだけだから、それは僕にとっても話す必要がないでしょ?」
 
とのこと。これをいいこと閃いた!と、川原の石の中から、自分の宝物の石を見つけてきた時の様に話すので、正直、驚きました。怒ったり、言い返したり、冷静に理由を聞いてみたり、色々した結果に思いついたことのようです。
 

そのままで大丈夫という安心感

これまでの学校でのことについては、担任の先生とも何度も話してきました。結論としては、「様子を見る(見守る)」の方針を息子、先生、私の三者で取ることを決めてます。そして、このことに関して息子からこうして欲しいというリクエストもあって、先生と私とで守っています。そして、その部分に関しては安心できている、のだそうです。
 
【揶揄いに反応しない】
 
つまり、違うことで付けられた意味づけを受け取らない、になるのかな?それをどう実践していくのか、引き続き見守りたいと思います。

そして…運動会で、同じクラスのお母さんから「息子さん、大丈夫ですか?」と話しかけられました。そのお母さんは、自身のお子さんから聞いたこと、そのお子さんが何もできなくてもどかしく思っていること、息子の良さについて家で話していることを伝えてくれました。その上で、「人から何かを言われても、息子さんの良さをそのまま持ち続けてほしいと思っています」と伝えてくれました。見守っていたのは先生と私だけではなく、他のお子さんや保護者からもでした。これは、とっても心が温かく、その温かさは、息子はそのままで大丈夫だ、と思う気持ちを強くしてくれたのでした。
 
 
自分らしく生きる事は、時に衝突も生むのだと思います。木が枝葉を伸ばすときに、隣の木に遠慮してぶつからないように延ばす、という事がないように。衝突が起きたとしても、「あなたのままで、大丈夫」と近しい人が見守ってくれてたり、言葉で伝えたりしてくれることで、その人らしく生きる安心感につながっていくのだろうと思います。だから、わたしもそういうまなざしを向けたり、言葉をかけていきたいなと思います。

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