デヴィッド・グレーバー「官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則」

「最新のテクノロジー的イノヴェーションを挙げてみろ」と言われたときに、あなたは何と答えるだろうか?

スマートフォン?あれはただ小さくなったコンピューターだ。あまりに非効率で、化学電池によるエネルギー供給は驚くほど心許ない。
インターネット?そんなものはただの発展途上なデータリンクでしかない。おまけにこの地球上ですら十分にカバーできていない。
パーソナルコンピューター?ただの小型化と集積化だ。

2015年に出版されたこの本の第2章で、筆者デヴィッド・グレーバー(「ブルシット・ジョブ」でお馴染みの人だ)は、「空飛ぶ車」が2015年になっても—もちろん2022年になっても—実現していないことについて、怒り、失望し、そして延々とこき下ろし続けている。

この怒りと失望を端的にもっとも良く表したのは、もちろんピーター・ティールの「我々が欲しかったのは空飛ぶ車だが、手に入ったのは140字だった(We wanted flying cars, instead we got 140 characters.)」だろう。
2022年に生きているのであれば、技術革新や人類文明の進歩についていかなるビジョンを持っていようとも、140字の言葉足らずな感情や暴力や広告ばかりがサービスが飛び交う代物を、我々が望んでいただなんて考えている人はいないはずだ。

我々は空飛ぶ車を手にしていない。宇宙へも飛び出せていない。無限のエネルギーも手にしていない。不老不死の身体を得ることもできない。
それでも広告は(ときには我々自身さえも)、「進歩」「技術革新」を喧伝し、ありがたがり続ける。電子部品の密度が高まっただけで。化学電池の物理的な大きさを増やしただけで。20年以上前の水準の転送速度しかもたない独自規格が10年前の転送速度に変わるだけで。

ここらへんで答え合わせをしておこう。デヴィッド・グレーバーによれば、最新の(最後の)テクノロジー的イノヴェーションは、電子レンジ(1954年)、ピル(1957年)、レーザー(1958年)あたりだ。
これ以降に登場したものは、基本的に既存のテクノロジーの組み合わせか民間転用でしかない。人類史の頂点たる1960年代の宇宙開発競争ですらそうだ。
テレビジョン、パーソナルコンピューター、インターネット、スマートフォン、人工知能、サブスクリプション、ブロックチェーン、仮想現実…
そして、これから登場する数々の「イノヴェーション」も。
(web版WIREDの、バズワードと既存のテクノロジーを掛け合わせて「イノヴェーション」とするしょうもない記事たちを想起してほしい)


忘れていた。この本のタイトルは「官僚制のユートピア」だ。
膨大な手続き、ペーパーワーク、ペーパーワークのためのペーパーワーク、たらい回し、構造的愚かさ、構造的暴力、儀礼性…
序章・第1章・第3章では、そういった官僚制の愚を痛快にこき下ろしつつ、官僚制はどこから来て、「なぜわたしたちは心から官僚制を愛しているのか」をわかりやすい言葉で考察してくれる。時たま現れるフィクション作品を例とした解説にはオタクっぽさも感じ、楽しく読める本だ。
官僚制と現代の企業資本主義はとても相性が良い。なんだったら官僚制を育んでいさえするかもしれない。(ビッグテック—たとえばApp Storeのアプリ審査—の愚かしいまでに硬直化した体質は官僚制そのものだ)


技術と知識を掲げるTwitterアカウントを運用している身として多くの言葉を費やしたいのは、やはり第2章。テクノロジーの観点から考えてみたい。
いまやテクノロジーが我々を縛っているのではない。我々の生み出した官僚制がテクノロジーを縛っているのだ。夢想を実現する「詩的テクノロジー」は、現状を管理運営するための「官僚制的テクノロジー」へと変質してしまった。
現代の企業型資本主義はテクノロジーを束縛する。利益が出ない夢想の実現は、資産家の気まぐれ以外に期待できる手段がない。
テクノロジーを発展させるためには、「本当に「この道しかない」のか」を考えてみなくてはならないだろう。

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