見出し画像

「ねばねば」でなく「わくわく」で生きよう~その1「ねばねば」で生きるって??

「ねばねば」でなく「わくわく」で生きよう!!

この言葉はいろいろなところで使っています。

いろいろな場面で話をしているのですが、文章にきちんとまとめたことがないのでそれについて何回かに分けてまとめてみたいと思います。

1.「ねばねば」って何

ねばねばと書くと納豆のあの豆が粘る感じですよね。その意味もあると思っているのですが、いろいろなしがらみに縛られて何か自分のやりたいことをやろうと考えたときに、根回しやら気配りやらやらなきゃならないことがいっぱい!!考えただけでもめちゃくちゃ消耗してしまい、もういいや、そんなわがままはしません、我慢します!!みたいな状況。なんだかめっちゃ生きづらい、もしくは消耗する状態のことを指しています。

どうしてこんなに生きることがしんどいのでしょうか?

つながり

2.人はみな関わりあって生きている

人って人が集まってかかわりあって、社会生活を営みながら生きているわけで、そうすると意識する、しないに関わらず、いろいろな役割を担っています。例えば会社の役職者としての自分、夫あるいは妻としての自分、子供としての自分、親としての自分、いろいろな社会的役割を同時に演じるとともにその役割の中で「こうあらねばならない自分」を定めてそういう風にふるまわなくてはならないという枠に自らを縛ってしまっているのではないでしょうか?

一人で山の中にこもって世間とのかかわりをたって生きていけるのであればそんなことを考えなくてもよいのですが、なかなかそれも難しい。そして演じなければならない役割もたくさんあってどれが良いのかもよくわからないし、不安、そこでみな、なんとなく画一化された姿、言い換えるとみなと同じような自分の役割に自分を当てはめてしまったほうが楽かも!!と思ってしまいます。そうすることによって多くの人と営む社会生活において無用の軋轢を防ぐことができると思うわけで、多くの人の中の一人として目立たず、ひっそりとだけど静かに人生を送れるのではと思うわけですね。

画像2

3.「与えられた役割を演じる」(枠にはまる生き方)

普通のことを普通にやる、人と違うことはせずに言われたことを言われた通りにコツコツやっているとそういう人生を送ることができる。自分の親からもそういわれているし、実際に親はそうやって自分たちのためにじっと我慢して文句も言わずに働いて得たお金で自分たちを養ってくれた。親はそういう生き方を自分たちにも望んでいることは肌感覚で感じる、だから自分らしくなんて考えずに人と同じように生きていこうそのためには「こうあらねば」という枠に自分を当てはめて生きていくことが大切なんだ!!

でも楽なはずな生き方なのにどうしてこんなに消耗するのでしょうか?

きっと本当の自分は「そうじゃない!!」と心のどこかで思っていて、時々それが画一的な枠からはみ出したがっているじゃないでしょうか?

めだたず、枠をはみ出さず、自分を抑えて、周囲の期待に応えつづける自分を演じ続けることにどこかで疲れているのではないでしょうか?

もっと本当の自分を出して、自分らしく振舞い、自分だけの人生を楽しみたいと思っていませんか?

例えば最近の大学生を見ていて思うのは「親の期待にこたえ続ける子供」みたいな感じでなんかめちゃめちゃしんどそうに「良い子」を演じている人がおおいなあと思います(いわゆる難易度の高い大学だと特にそうかなあ)。

画像3

4.人生はよいレールに乗り続けないといけない??

まあ僕ら(私は今年57歳)の若いころでも同じような話はありまして、まあエリート意識みたいなものがそうですよね。漫画の世界なんかでも私は選ばれた人間だ!そんな私がお前みたいなどこの馬の骨ともわからない奴に負けるはずがないし、負けるわけにもいかない!!とか惣流・アスカ・ラングレー(エバ2号機搭乗パイロット、14歳で大学卒業したという設定)なんかもそうやって自らを奮い立たせて頑張ったりするわけなんですが、そうすると走るべきレールから外れてしまったら自分の人生おしまいだあ~みたいな感じになっちゃいますし、その周囲に望まれてる役割を演じるだけでめちゃくちゃ消耗しちゃったりするわけですよね。

アスカもエバンゲリオンTV版では自分が全く歯が立たなかった第14使途を親のコネでエバ搭乗者に選ばれたバカシンジに倒されてしまったもんだからバーンアウトしちゃってさらに第15使途の精神攻撃に「ねばねばで生きている」部分をつつかれてしまって廃人になってしまうわけで、なんというかねばねばって一見楽そうに見えて実はとってもつらいということになるんじゃないかと思います。

画像4

ねばねばって結局のところ、何かにすがらないと生きられないことなのかなあと思います。学歴であったり、大きな組織だったり、首にならない雇用だったり・・。そのために自分らしさを押し殺して我慢し、そのレールから外れないようにして生きることが大事であるというのがねばねばの生き方といえるのでしょうか?

5.「ねばねば」が正しい時代もあった!!

この生き方って実は有効な時代があったんではと思っています。日本の高度経済成長期からバブル期なんかはまさにそうだったんじゃないかと・・

バブル

いわれたことを言われた通りに、より低価格で高品質で作るというビジネスモデルが有効だった時代ですね。こういうモデルの中で働くときは個性なんかいらなくて組織の歯車として有効に機能する能力さえあればOKみたいな感じだったと思います。歯車にもいろいろな形があって細かい部分まできれいにかみ合わないといけないものから、大きなストレスがかかっても壊れないものまでさまざまな種類のものが必要で、そのあたりを学歴と面接でざっくり見極めて画一的な教育でアジャストさせればOKみたいな感じだったのではないでしょうか?

こうやって考えてみると「ねばねばな生き方」は工業化社会においてはとってもはまる生き方だったのではないでしょうか?組織の歯車としての無個性を要求する代わりに安定した雇用を保障するというトレードオフがそこにはあるように感じます。高度経済成長期って、人が持つと自分も欲しくなるというトレンドで、人と同じでないといけないみたいな時代だったと思います。そして物的欲求「持つことへの欲求」がとても強かったといえると思います。さらにそれはみなステイタスとして同じようなものを持ちたい時代だったといえるでしょう。その中でもより上へという皆が上昇志向の意識も強かったじゃないかなあと思います。

クラウン

当時、「いつかはクラウン!!」というCMが20-30年前にめちゃくちゃはやりましたが、トヨタはその辺をとてもよくわかっていてクラウンを頂点に、マークⅡ、コロナ、カローラというヒエラルキーを作って社長はクラウン、役員と部長さんはマークⅡ、コロナは課長さんでその下はカローラに乗らねばならないという「ねばねば」マーケティングをかなり徹底していました。車で社会的なステイタスがカテゴライズされるという話なのですがより上位のステイタスの車に乗らねばということでみなが同じように頑張っていた時代でもあったように思います。さらに、単一民族を中心に構成され、狭い島国で山が多い地形の中でわずかにある平地で人がひしめき合って生きてきた日本人はこうした生き方がとてもはまりやすかったのかなあとも思います。90年代初頭のバルブ絶頂期のころにこのやり方で一時は世界NO1の経済力を有する国に上り詰めることができたのですから・・

ここまでの話を整理すると、同じものを持つ、持ちたいという欲求がねばねばの根底にあったのではないかと思っています。

6.「ねばねば」時代の終焉

モノからコト

それがバブル期あたりからそのトレンドも少しずつ変化してきて同じモノを持つことから違うモノへのニーズの変化が起きてきます。人と同じでなく、人と違うモノを求めるというマインドの変化が起きてきたわけですよね。これは例えばストアチェーンの隆盛(モノがたくさんある中で自分で選ぶ)につながったりしていると思います。21世紀にはいるとさらに「モノからコト」に欲求のトレンドが変化してきています(最近はさらに「コト」から「人」に変わっているようにも感じますけど)。インスタなんてそういう事を切り取るツールとして流行しているだろうと思います。

コトってみなと同じではなくそこには自分らしくとか自分だけといった個人の個性が入ってくると思うのです。そこには枠にはまった自分でなく一人の自分としての個性や特徴があり、それをそのまま出して生きることへの潜在的な欲求が含まれているように思います。

消費マインドではすでにそういう個人、個性というものを尊重し、それに寄り添う形でマーケティングが進んでいるように思うのですが、ライフキャリアにはまだそのあたりのパラダイムシフトがまだ起きていないのでしょうか?

ねばねばって実は自分の中の当たり前(これが常識でしょ)の枠に従って行動することともいえると思っていて、この枠を他人に対して当てはめようとすると時としてすざましい軋轢を生みだします。例えば嫁と姑の関係。あるいは親と子の関係。嫁の時に姑にいじめられた経験のある方のほとんどは自分はひどい目にあったので自分の嫁にはそういう思いをさせたくないとおっしゃいます。しかし実際には自分の価値観というか「嫁とはこうあるべき!!」という枠に嫁を当てはめようとしてそれが軋轢になっているケースが多いように感じます。もちろん自分がされたことをやっているという自覚はないのですが逆に言うとそこには悪意がないので余計に事態を悪化させてしまっているのではないでしょうか?

あの「おしん」がNHK BS3で再放送されていて何となく見続けているのですが、実はこれまで、最後まで見たことがないのです。っで、現在はおしんが姑になっている編をやっています。嫁編(勝手に名付けています)では姑にすざましいいじめを受けて最後には実家から子供を連れて逃げ出すという行動をとっていたおしんが今度は姑になると「嫁は家に入ったらその家のルールに従うべき」というねばねばで、嫁にあたります。それで嫁が実家に逃げ帰ったりするのですが、それをみて「近頃の若い娘は・・」とぼやきつつ、まったく自分の行動を変えないで嫁いびりを繰り返すという状況が放送されていて見てるのが結構つらくなったりします。

自分と他人はどこかの部分で違っていて当たり前でそこに自分の価値観を押し付けないことが「ダイバーシティ」だと思っているのですが「ねばねば」の考えってこの真逆なのではと思うのです。日本人って狭い島国に単一民族(?)で生きてきているので多様性を受け入れる考え方が実はすごく苦手なのかなあと思います。

もはや「ねばねば」で生きる時代ではないように感じているのですが、狭い国土に単一民族(厳密にいえばそうでない)でひしめきあって生きてきた日本人はねばねばな生き方が大好きで、その結果日本は世界の変化に取り残されつつあるというのが現在の状況ではないでしょうか?

「ねばねば」な生き方、そろそろやめませんか??きっと今までと違う世界がみえてくると思いますよ・・








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?