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自分らしさを内省し、それに向き合い素直に生きることで人生が豊かになったという話

こんにちは、北陸人材ネットのヤマキンこと山本です。

スキーシーズンも終わりつつ、これから何をしようかと考えた結果、筋肉を増やそうということで、毎日体組成計に乗って、筋肉量の増減に一喜一憂しております。というか日によってめちゃくちゃ変動しているのでおそらく正確に測定できていない気がするんですけど、中長期的に増やす方向で、ダイエットでなく増量の方向で取り組んでいます。ただの肥満になってしまうのではとちょっぴり心配ですけど・・

さてコーチングを学び始めて約1年、おかげ様でプロコーチとしての活動領域が仕事の中に増えてきたり、コンサルのようなコーチングのようなかかわりをもったりして、最近自分のやっている仕事を一言で説明することがだんだん難しくなってきているなあと感じていますが、一言で言うとヤマキン業とでも呼べばよいのか(笑)

コーチングを学んで自分の中で最も得ることが大きかったなあと思うのことが今回のテーマです。

内省って何??

自分で自分の価値感やたいせつにしていることを掘り下げることといえばよいのでしょうか?ある何かの出来事に遭遇したときに、自分が瞬間的に何かの反応をしてしまうと思うのですが、それを後から振り返って「なぜあの時自分はこんな反応を起こしたのだろう??」と問いかけ、その理由を探り、考えるみたいな感じでしょうか?就活時の自己分析って一種の内省だと思うんですけど、それを仕事選びだけでなく、様々な側面に光を当てて考えることかなあと思っています。PーD-C-Aサイクルも結構近い思考法だと思うのですが、こっちだと、もっと良くするにはどうすべきか?というどっちかというと改善の視点で振り返ることになるのですが、内省の場合は自分が反応したことがいいとか悪いというとらえ方でなく、「なぜそのように反応(思い、感じ、行動したのか)?」という問いを立てて、その言語化を行うという感じでしょうか?そこには正しいか間違っているかではなく、好き嫌いや価値基準、相性、という部分で自分を理解していくというスタンスですね。ちょっと例を出してみます。例えば職場の上司のくだらないオヤジギャグには面白いとは全然思っていないけどとりあえず反応するという行動をとる人がいたとして、「なぜ面白くないのに反応するのか?」という問いをたてる感じですかね??掘り下げていくと、

①目上の人に対する礼儀的な感じで反応する人もいれば、

②とりあえず場を和ませてくれようとしてくれたその人の気づかいに反応している人もいれば、

③自分から会話のきっかけを作るのが苦手なタイプにはとりあえず何らかの反応をすることでそのきっかけにするみたいな人もいるわけで、、

そういうのを自分の中で掘り下げてって自分の中で納得性の高い内容で言語化するということが内省という事になるでしょうか?

過去の自分の反応を振り返ることが多いですが、ある程度習慣化してくると、無意識に反応した瞬間に即座に内省し、そこからこれから起こりうるであろう様々な判断や選択に対しての軸みたいなものができてくることがあります。


これって実は自分の中では当たり前に思っていることに対して問いをたてることになるのですが、最初は自分の中では当たり前すぎてそれに対して問いをたてるということができません(問いをたてる意味性を感じないことも多いかも)。自分という存在に対してちょっと離れた位置から見ている自分みたいな視座が求められると思います。そして繰り返し内省を行うことで、自己理解というか自己認知が進んでくると自分という存在に対して全体としての理解が進みます。

自分らしさが少しずつ見えてくる

自分ってこういう奴なんだなあというのがわかってくると、そこから自分らしさも少しづつ見えてきます。実は大嫌いな自分らしさもあるのかもしれないのですけど、好きとか嫌いという感情はいったん手放して理解していくスタンスが大事かもしれません。嫌いという感情に反応してしまうとそれを拒否する方向(だから自分はダメな奴なんだ!!みたいな)に受け止めてしまい、そこから深掘りができにくくなるような気がします。さっきの上司のくだらないギャグに①みたいな感じで反応しちゃう人には自己否定的な受け取り方をしてしまう人が多いような気がしていますが、いったんそれをそのまま受け入れる感じでしょうか?

 ヤマキンは実は①の部分があります(これは結構以外に思われることが多いのですが)。それが自分でも嫌いで、そうするとそういう人たちとの接し方にぶれが出てしまって、結果的に自分より5歳くらいまでの年上の人達とはあまりうまく関係性を気づけない傾向があります。若い時は職場のそうした年代の人たちとの関係性をうまく作れなくて悩んでいた時期もありました。なぜそれがうまくいかないのかをということを自分なりに分析すると、自分の中では年上の人は自分よりも秀でている部分があるはずで、であればそういう人たちの話はいったんは受け入れなければならないという受け取り方をしているようです。年上の人には敬語を使うという体育会の文化で育ってきてる影響も大きいかもしれません。

でも実際はあまりそんなことがなくって年齢に関係なくダメな人はダメだし優秀な人は優秀なんですよね。それでも何となく年上には敬意を払い従わないといけないという自分の無意識の刷り込みで対応してあとからそれが裏切られた感じを繰り返していたようです。

自分らしさを受け入れて生きる場をつくる

いつ頃からそれをそのまま受け入れるようになったかというのはあまり自分の中でも明確ではないですが、今は自分はそんな人間なんだという捉え方をして生きています。ですので今もそういう年代との関係性を構築することは得意ではありません。では今はどうしているかというと端的に言うと

そういう世代の人たちはあまりかかわらない

ような立ち位置で生きるようにしています。

付き合い方がうまくないんだったらあまり付き合わなければよいんじゃない??ということですね。

え!!それって人としてダメなんじゃないの??

と思われる方もいるかもしれません。苦手なことや嫌いなことから逃げてしまうのはダメな奴!!碇シンジ君も「逃げちゃダメだ」と言い聞かせてエバンゲリオンに乗っているわけで(笑)。

いやしかし、いやいややることに何の意味があるのか?を逆にお伺いしたいです(笑)!!食べず嫌いということもあるのでいやいややってみたら実は楽しくてというケースもあるから、まあある程度はやってみる必要はあるとはおもいますけど・・

自分はどんな人間で何が好きで、何が嫌いで、どんな生き方が心地よいのか内省によって理解を深め、できるだけそれに即した生き方を志向することが自分の人生の価値の最大化につながるのではないでしょうか?

もちろん社会を構成する一員として自分の人生があるわけですから、なんでも自分のやりたい放題に生きることを是認しているわけではありません。でも自分らしさをそのまま社会の中で発揮しつつ、それで周囲の人たちとWIN-WINの関係が構築できればOKなのではと思います。

そうは言ったってそういう苦手な人達との付き合いをたつなんてそんな生き方できるわけないし、許されないみたいな感じでまだ反論するかもいらっしゃるかもしれません。社会を構成する人たちにはそういう方々もいらっしゃるわけですから・・

ではどうすれば良いか??

そういう方々とのお付き合いが得意で好きな方にやっていただけばよいだけの話だと思っています。人それぞれの自分らしさは異なるわけで、自分が嫌なことはほかの人も同様に皆が嫌という事ではありません。納豆大好きな人もいればにおいをかぐのも嫌という人がいるのと同じ事ですよね。自分は納豆大好きなんで、チームの中で納豆嫌いな人の納豆は私が食べるから、その代わり私の嫌いな茄子の煮物は誰か食べてね~みたいな・・

お互いの個性を理解し、尊重しつつそれぞれの持ち味ややりたいことを受け持つ方向で役割分担して仕事していけばいいじゃんということですよね~

今の自分よりより自分らしく生きるということを志向し、自分らしさについて内省し理解を深め、それに向き合いつつ、かつより自分らしく生きるための機会や環境を求めて外的環境に働きかけ、少しずつ自分にとっていこごちの良い場を作っていくていくことがサイコーな人生の送り方なのかなあと思う今日この頃です。

常に自分史上サイコーを更新するみたいな・・

とまあこんなことを書いていたら丁度知人が同じようなことを本に書いていたのでそちらもご紹介します。


では今回はこのあたりで・・






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