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文字の上だけじゃ、生きていけない

昔から、私はSNS中毒だと思う。小学4年生くらいで、ネット上でコミュニケーションが取れるアバターゲームに大ハマりし、学校でパソコンを習うよりも早く、タイピングを覚えた。中学の頃は、TwitterやTiktokの前身だったものを暇さえあれば確認し、知らない人とのささいな繋がりや、短い動画を、楽しんだ。

Twitter、Instagram、Youtube、Tiktok、Facebook…時が経つにつれ、使うSNSの幅は、広がっていく。それに伴い、広がる世界が、いっぱいあった。いつか行ってみたい本屋さんや世界中の景色、会ってみたい人に出会えた。

少しずつだが、誰かの「いいね」ではなく、自分が肩の力を抜いた先で「好きだな」と思う言葉や形や場所などを見つけつつあると、思う。そして、それを「それでいいのだ」と、信じることができるようになってきた。

今日も、わたしは、自分の「美しい」をひっそりと見つけ、数少ない人に、シェアするのだ。感想は、求めない。何も、求めない。それでも、ただただ、伝えたくなってしまう人がいる。月日が経っても、この小さな営みを、大切にし続ける人でありたい。

SNSには、代償もある。情報を知りすぎてしまうことは、あまりにも、現実よりも過剰な光や闇を、取り込むことになりかねない。私もいつも、その、あやうさの中で、バランスを崩すまいと、戦っている。うまくいかず、おぼれてしまう日も、ある。SNSとのうまい付き合い方は、今でも模索中だ。

薬石浴をしながら、ぼーっとしていた今日。ぽんぽんと頭に浮かんでくる雑念は、ここ数日、人のSNSで見たものばかり。ああ。こうやって、自分の人生にとって余分なものたちが、無意識に脳を占めていくのか、と気づく。

毎日、noteを書き始めて、5日目。アメリカに行くまでの1ヶ月とはいえど、まだまだ、この試みは始まったばかりだ。ただ、ひとつ、気づいたことがある。

noteをはじめた次の日の朝から、自分のアンテナが、もう一歩ばかり、研ぎ澄まされている感覚があるのだ。なんだろう、この感じは。小さい頃に、近いのだろうか。知らない街が変わりゆく姿を、車の中から、ずっと、ずっと見つめていた、あの時に。

水を飲む。日の光を浴びる。すれ違う人の会話に耳を傾けてみる。ふれるもの、聞こえるもの、目に入ってくるもの・・・日々の全てが、新しい景色へと、化すのである。「意識を変えると、見える世界が変わる」という、言い方によっては胡散臭さがある言説も、あながち本当な気がした。

薬石浴後、だだっ広い休憩所で休んでいると、1歳くらいの小さな男の子が、こちらをじーっと、見つめてくる。その子の後ろで、心配そうに、その子を見つめているのは、お父さんだろうか。とにかく一緒にいる大人の方は、申し訳なさそうに、こちらに、会釈をするのだった。

大きくなるにつれ、いつの間にか覚えてしまっている大人の気遣いなど、その子は、お構いなし。小さき人は、一歩一歩、こちらに、近づいてくる。まるで、新しい生物を見るように。まんまると目をひらいているその姿は、「好奇心」以外の気持ちは、なさそうに見えた。何にも、囚われてない。彼の人生の中での「はじめて」が目の前に現れた時、勝手に、足が動いていてしまっている、だけだと思う。

私はも、思わず、左手をのばす。
もちもちしている小さな右手が、私の手に、そっと、ふれる。

ああ。これだ。きっと、こういうことだ。私は今、言葉を綴れるのは、こうして、いま、生きているからだ。

この時代でも、直接、足を運ぶこと。その中で意図せぬ何かに出会い、喜ぶこと。がっかりすること。ハッとさせられること。気づくこと。

これからも、言葉を綴り続けるのであれば、携帯やパソコンの外で広がり続ける地に、足をつけなければならない。世界と対話し続けながらも、地域や身の回りの声に耳を傾けることを、怠ってはならない。

「しなければいけない」ものたちは、ためらいから、生まれるものばかりではない。少なくとも上に書いたものは、言葉やそれを通したコミュニケーションを大切にしたいと願う私の、ずっと変わらない、ちっぽけな覚悟だ。

文字の上にはない、この今を、明日も、明後日も、生きていくのだ。

いつも、応援、ありがとうございます!サポートいただいたお金は、6月から約8ヶ月間のアメリカの留学費に全額使い、その体験を、言葉にして、より多くの人に、お返しできたらな、と思っています。