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おもちゃで遊ぼう。戦おう。〜ブンドドのススメ〜

 ぼくの宝物は、プラスチックのケースの中にある。
 
 ダイソーで買った、300円のケース。蓋を開ければ、出てくるのはぎっしりと詰まった色とりどりのフィギュアたちだ。

 アクションフィギュア、とカテゴライズされるものだ。関節が動き、さまざまなポーズをとることができる。ほとんどがアメコミのヒーローたちで、衰えることのないマッシブな肉体美をそれぞれに持っていた。マスクで顔を覆っているものもいれば、歯を剥き出しにした威嚇の表情をとるものもいる。白目を剥いているものもいるし、不適な笑みを浮かべているものもいる。ほとんどは体にぴったりとしたコスチュームを身に付けており、その色は、赤、黒、青、黄色、緑と多種多様だった。全体として見ると、ずいぶんとカラフルで雑多な、しかしどこか統一されたような印象を受ける。

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 アクションフィギュアというのは、日本においてはほとんどのユーザーが大人だ。
 メーカーも大人向けに作っているから、細部のクオリティが高く、値段も高いものが多い。それでいて、かなり繊細な出来になっている。間違っても未就学児童に手渡せるものではない。彼らはあっという間にその腕や脚をもぎ取ってしまうことだろう。
 
 しかし、ぼくが集めているものは、すべてアメリカ製のものだ。
 アメリカでは、アクションフィギュアは子どものおもちゃの主流になっている。対象年齢は3歳からになっていて、そのぶん、耐久性も高い。関節をガシガシ動かしてみたところで、フィギュア同士をぶつけてみせたって、容易なことでは壊れないし、へたらない。塗装がはみ出したりディテールが省略されていても、その頑丈さは、魅力だった。おもちゃというのは、それぐらいタフでなければならない。また、値段もさして高額にはならないから、集めやすかった。日本製のアクションフィギュアを買うお金があれば、新品が二体、アメリカ本土から輸入すれば三体は買える。
 
 フィギュアを集めてどうするのか、という疑問を持つ人が、世の中にはいるようだ。
 飾って楽しむ? コレクションすること自体を楽しむ? ポーズを取らせて写真に撮る? どれも、一面を言い当ててはいる。現に、それらの楽しみ方をしている収集家は多いだろう。SNSを漁ってみれば、それらを愉しむひとびとのすがたに出会うことはたやすい。彼らの楽しみ方は、とても魅力的だ。
 
 でも、ぼくは違う。
 ぼくの楽しみ方は、原初的で、根源的で、おもちゃ本来の目的に立ち返るようなものだ。ありていに言ってしまえば、きわめて子供っぽい、楽しみ方だ。
 
 つまり、“遊ぶ”のだ。

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 フィギュアを戦わせる。頭のなかで、あるいは口で効果音を付け足して、声色を変えながら台詞を口ずさみ、フィギュア同士の戦いを再現していく。

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 出来のいいフィギュアは、それ自体がなにかを物語っている。なにかの台詞を口走っているようだし、なにかの行動を起こそうとしているようだ。彼らの語ることに耳を澄ませて、忠実に再現していけばいい。

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 フィギュアとフィギュアとは関係を生む。その関係を、戦いのなかで表現していく。彼らは罵り合いながら共闘し、あるいは友情の思い出を語らいながら殺し合う。そこにはドラマがある。物語は自然と生まれていく。一度言葉に出したものは設定となって、次の戦いにも受け継がれていく。

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 こういった遊びの中で、原作は尊重されない。参照されることはあっても、遵守されることはない。ぼくは名前と外見と設定を受け取り、そこから都合のいいものを取捨選択して用いていく。都合が悪ければ無視してしまえばいい。この遊びは誰に見せるものでもないのだから、ぼくの好きな名前、ぼくの好きな設定を、存分に振るわせてもらう。目の前に明確に存在しているのは、外見だけだ。
 
 遊びは、何度も何度も繰り返される。
 好きな戦いは何度も再現するし、そのたびに新たなディテールが付け加えられていく。前回の戦いを踏まえた戦いも行われるし、まだ戦っていない戦いさえもが、過去の大戦ということで言及されたりもする。いつかその大戦を再現することもあるかもしれないし、ないかもしれない。ぼくにとってその遊びが楽しそうであれば、戦われることだろう。
 
 フィギュアの素敵なところは、増えれば増えるほどに、新たな人間関係が生まれるということだ。

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 たとえば二体のフィギュアを持っていたとする。Aというヒーローと、Bというヴィラン。三体目にCというフィギュアを買ってきたとすれば、AとC、AとB、AとBとC、という三種の組み合わせが新たに生まれるのだ。CはAに味方するかもしれないし、裏切ってBにつくかもしれない。Aに裏切られたと勘違いさせられて、Bに操られてしまうかもしれない。Bの境遇に同情し、Aを止めようとすることも考えられる。可能性は無限大だ。新たにDを買ってくれば、さらに人間関係は加速度的に増えていく。
 
 ぼくのフィギュアを買うルールの一つに、外見が気に入ったものを買う、というものがある。あまり元ネタを知らないものを買う、というものもある。どちらも、想像力に制限を掛けず、自由に飛び立たせるためのルールだ。これを徹底していくと、好みの外見を持ち、あまり味付けがなされていないキャラクターを、遊びに取り入れていくことができる。

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 ときによっては、ぼくは戦わせることさえしない。
 いくつかのフィギュアを並べ、顔を眺めていると、彼らが想像の内で喋りはじめるからだ。誰かがある行動を主張し、誰かが反対意見を挙げ、誰かが茶々を入れて混ぜっ返す。誰かが勝手に行動をはじめ、誰かがそれを面白がって付いていき、誰かがそれを止めようとし始める。一方、こちらの場所では、彼らとの反対勢力であるこちらの連中が動き始めていて……。こうして考え始めると、自然と物語は膨れ上がっていく。

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 こういう遊び方を、ほとんどの人はもうしないらしい。
 子どもっぽいとして、もう卒業してしまっているからだ。でも、ぼくに言わせれば、これほどもったいない話はない。大人になった今こそ、こういう遊び方をうまくできるのだ。物語や台詞やキャラクターの引き出しは、もう頭のなかにぎっしりと詰まっているのだから。いままで消費してきたフィクションのなかから、おいしいところを摘まみだしてくることができる。自分より妄想がうまい人たちが、多くのシチュエーションや、多くの名セリフや、多くの熱い展開を考えてくれているのだから、それを使わない手はないのだ。丸ごとのパクリだって構わない。そのパクリをそしる人はいないのだ。だって、自分しかいないのだから。

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 それに、お金だってある。新しいフィギュアを買ってくることなんて、大人の経済力をもってすれば、さほど難しいことじゃない。制限を掛けられていた子ども時代とは違う。好き放題に、世界を広げてしまうことができる。

 場合によっては、スケールを無視して合体ロボットを導入したっていいし、ジャンルや作品の枠を超えて他のキャラクターを出演させたっていいのだ。ぼくが敵役として好んで買っているこのスポーンのフィギュアなんて、いっときの社会現象が嘘のように、安くなっている。
 
 いい時代になったものだ。

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 大人げない……という言葉は、こんな時代に似つかわしくない。
 大人が子どもっぽいことを全力で楽しんでいるすがたなんて、子どもの頃、ぼくたちがいちばん羨ましく見ていたものじゃないか。大人らしい趣味に興じている大人を羨んだことなんて一度もなくて、それよりも、漫画本をまとめ買いしていたり、玩具屋で限定物の高額商品を平然と買っているすがたに、ぼくたちは憧れてたんじゃないか。
 
 おもちゃを買おう。
 そして、戦わせよう。心ゆくまで。


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