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今夜、ホタルを見に行こう
「そろそろホタルの季節じゃない?」
娘にそう言われて、5月も終わりに近づいていることに気づきました。わたしの住んでいる地域では、ゲンジボタルが飛び始める頃です。ホタルを見ることは、定期的に波の音を聞くのと同様に、とても大事なことなのです。
ホタルは現実と非現実の間を行き来する生き物です。
そう感じる経験をしたことは、一度や二度ではありません。
7月のある日、山の麓の小さな駅でのことです。
わたしにとって、そこはとても大切な場所です。
日が落ちてあたりが暗くなってきたとき、ふと「ここにホタルがいればいいのに」と思いました。周囲に川はなく、水たまりすらありません。ふつうに考えれば、ホタルがいるとは思えません。
そのとき、山の方で小さな光が揺れているのが見えました。はじめは見間違いかと思いましたが、それは明滅しながら徐々にはっきりしてきます。紛れもない、ゲンジボタルの光です。その光はゆらゆらと漂うようにこちらに近づいてきます。
とっさにカメラを向けると、それはふわりと降りてきて、レンズの先端にとまりました。幻ではありません。ふたつの発光器をゆっくりと光らせながら、レンズの縁を歩いています。そうやってしばらく休んだあと、こんどは反対の方向にしずかに飛び去っていきました。
現実と非現実の境界を決めようとしてはいけない。
ホタルはそう教えてくれます。
「一緒にホタルが見たい」
そう言ったとき、どんな反応をしてくれる相手が理想だろう。
娘とそんな話をしたことがあります。
そんなものに興味ないと言われたら仕方ありません。初夏の夜にホタルを見に行きたいと思う人はおそらく少数派なのです。ホタルの名所に誘ってくれる人はどうでしょう。きっといい人ですが、面白味はありません。それよりも、ホタルのいる場所を探してきてそこに連れて行ってくれる人の方が素敵です。ホタルは静かに見るべきものだからです。
でも、一番は「ふたりで探しに行こう」と言ってくれる人かもしれません。
ホタルを見つけるのは難しいことではありません。少なくとも、探しに行って見つからなかったことはほとんどありません。山のそばの小川のある場所に行けば、時期さえ間違わなければ、いないことのほうが珍しいのです。
古くから日本人に愛されてきたホタル。
それが以前ほど身近でなくなったとしたら、それはホタルが減ったことよりも、わたしたちが「ホタル的なもの」に興味を持たなくなったせいだと思います。
たとえば最近、ただぼんやりと夜の庭を眺めていたことがありますか?
今、こうしている間にも、日本中の川縁で何千何万のホタルが誰にも見られることなく飛び交っています。現実と非現実の間を行き来しながら。
今夜、その光を見に行きませんか?
ホタルの発するひとつひとつの光には物語があります。見出しの写真は、稲の先端で光る1匹のヘイケボタルにむかって別の一匹が降りていくところです。ゆるやかな弧を描く光跡に、そのホタルの期待や不安のようなものまで感じることができます。驚いたり、ためらったり、ムキになったり、虫たちの様子を見ていると根本的なところは人間と似ている、いや、人間の行動は虫たちとあまり変わらないことに気づかされます。
「科学」と「写真」を中心にいろんなことを考えています。