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彼女の消えた森で

職場の敷地の一角に小さな森があります。
以前は毎日のようにお昼にそこを散歩していました。土地を造成するときに邪魔になった木をまとめて移植したような場所で、自然にはありえない植生が維持されています。たまにウサギが目の前をかけていき、すぐ脇の池ではカワセミを見ることもできます。

森には遊歩道的な道がありますが、歩く人はほとんどいません。暖かい時期にはたくさんの虫が歩き回っていますし、秋には落ち葉でどこが道なのかも分からなくなります。

だれが好き好んでそんな所を歩くでしょうか。

ある日、東京の会社で緑地管理の仕事をしているという男性に会いました。男性は興味深そうに森の木々を眺めていました。
「ここは素晴らしいですね。枯れた枝を落としてしまわずに、そのまま残してある。だからああやってキツツキが巣を作ることもできるんです。」
「こんなふうに少しでも自然に近い状態を残す管理がわたしの理想です。でも、都会ではなかなかそれが許されません。」
お気に入りの場所を褒められるのは悪い気はしませんが、この森はそういう意図のもとで「管理」されているわけではありません。「放置」されているだけなのです。(太い枯れ枝がすぐ背後に落ちてきて怖い思いをしたこともあります。)

また、ある日には一人の老人に声をかけられました。
「このあたりにカタツムリはいませんか?」
「カタツムリの音を聞きたいと思っているんです。」
え?カタツムリの音?
その人はそれからしばらくカタツムリの話を続けました。そして、「こうしてあなたと話ができたことが今日の収穫です」と去っていきました。カタツムリの音っていったいどんな音なんだろうという謎を残したまま。

ここは特別な興味を持った人を呼び寄せる森なのかもしれません。

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そんな森の片隅にそれほど大きくない一本の木があります。

その木の低いところ、わたしの胸の高さくらいのところにとてもちいさな枝がひょろっと伸びていて、先端には毎年かわいい葉がつきました。なにか惹きつけるところのある枝で、散歩の時にその写真を撮るのが日課のようになりました。

約10年の間、その枝は少しも成長しませんでした。
暖かくなると小さな3枚の葉がつき、秋には色を変え、冬が来ると散っていきました。その繰り返しは、変化する森の中のちいさな不変でした。

変わったのはわたしです。

去年の秋くらいから、わたしは森に行かなくなりました。
仕事が少し忙しい時期があって、散歩をする習慣がなくなってしまったから。というのはひとつの理由ですが、実際は、森を歩くことに以前ほど喜びを感じられなくなったのです。

そして、冬が過ぎ、春が終わりました。

今年の夏のはじめ、ニイニイゼミが鳴き始める頃に久しぶりに森を歩きました。
生い茂った緑の中、なつかしいあの木。

でも、ちいさな不変はいつまでも不変ではなかったのです。

枝はなくなっていました。

枯れてしまったわけではありません。まるで最初から何もなかったかのように、なんの痕跡も残さずに枝は姿を消しました。そこに枝があったことも幻想なのかもしれない。そう思わせるほどの完璧な消失。

その完璧さを見た時、枝が消えてしまった理由がわかりました。

この世界には「だれかが見てくれるから存在しているもの」や「だれかが信じてくれるから成立しているもの」があるのです。

そんなものの多くは、そっと生まれては消えていきます。
そして、誰かに気づかれたものだけがこの世界に留まり、世界の法則を少しずつ書き換えていくのです。その静かな営みがこの世界を「善き世界」にしている、そんな気さえします。

きっと、それに気づくことのできる人は限られています。
「ちいさな枝」がわたしの前に現れることはもうないのでしょう。

「科学」と「写真」を中心にいろんなことを考えています。