見出し画像

以前は理解されなかった「優越の笑い」がいまはとてもリアルになってしまった 『笑いの哲学』ができるまで(8)

10年くらい前から大学の講義で「滑稽さ」をめぐる講義をしてきました。『笑いの哲学』(木村覚著、講談社選書メチエ、2020年刊)の中では、第一章にて「優越の笑い」を取り上げています。これについては、他人の不格好さを見てしまった人が、「私はこんなヘマはしない」と他人と自分とを比較して、自分は立派だと「突然の得意」を心に抱き、笑ってしまうというトマス・ホッブズの理論をベースに話をしていくのですが、講義を始めたころ、この説に対する反発がとても大きかったことを思い出します。反発する学生の大半は「私はこんな笑いを笑うような冷たい人間ではない」という意見を表明してきました。

いまはそんなことはありません。

良いことか悪いことかは不明ですが、SNSが社会に浸透し、スマホを通すると、他人を誹謗中傷し、嘲笑の笑いを笑ってみせる人々を、学生たちは沢山目にするようになりました。なかには、自分こそが、そうした嘲笑の笑いで溜飲を下げている一人だという学生も(そう自己申告するレポートは今のところ一度ももらったことがありませんが)いるにはいるだろうと想像します。

そういう世の中になる前(2010年ごろ)は、まだ牧歌的でした。

思い出しました。その時期、はじめて私はiPhoneを買ったのですが、学生から「先生、オタクですね」と言われたのです。でも、あっという間に、学生たちは「オタク化」し、もうスマホ持っているだけではオタクとは呼ばれなくなり、持っていないことがあり得ないこととなったいまでは、嘲笑の笑いを知らないとか、笑ったことがないという学生はいなくなりました。

でも、10年前は、かわいらしい、フェミニンな雰囲気を醸した、美青年学生が、「僕が笑うときは、自宅の黒猫の背中を撫でているときくらいです。可愛くて、思わず笑みが出ちゃうんです」とネタではなく、素で、教員に向かって口にする牧歌的な時代でした。それとも、あれ、ギャグだったのかなあ。笑いを真面目に研究しているおかしな教員を嘲笑して、あんなこと言ったのかなあ。でも、周りの女子たちが「(あの男子)かわいい」とも響く笑い声をそんなコメントに添えていたのを覚えています。

ある種の笑いは次第に「笑えないもの」となり、問題は政治的な色調を帯びるようになり、そうしたことに鈍感な人間は時代遅れな、「ブラック・ライブズ・マター」の時代になりました。あの美青年学生は、いまどうしているのかな、、、。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?