見出し画像

人間が人間として豊かになってゆく笑いの諸段階 本書の構成について 『笑いの哲学』ができるまで(9)

『笑いの哲学』(木村覚著、講談社選書メチエ、2020年刊行)が出版されました。多くの方に本書に興味を持ってもらいたく、10回ほどのシリーズで本書が「できるまで」をエッセイにしています。今回は、9回目。本書の構成について、私が意図したことをお話ししたいと思います。

本書は三章立てです。

第一章は「優越の笑い」を、
第二章は「不一致の笑い」を、
第三章は「ユーモアの笑い」を、


取り上げています。

私は、この構成を人間が人間として豊かな存在になってゆく段階として考えています。

画像3

「優越」で笑っている段階から、優越で笑うことはなんだかくだらないなと感じて「不一致」で笑う段階へ、また「不一致」で笑うのもただそれだけでは虚しいと人間のなかに「ユーモア」の可能性を見出して、「ユーモア」で笑う段階へ。

具体的には、ぜひ本書を手に取って読みながら、具体的に私の考えていることに触れてもらえたらと望んでおります。

これは同時に、社会の「掟」に囚われている段階から、次第に「掟」に囚われずむしろそれを利用する段階へ、さらに「掟」に抗して生きることもできるのだと「掟」から距離を取り、「掟」から自由になる段階へ、そうした人間の発展段階としても、構想されています。

「ユーモア」は、「掟」(これは、こう感じ、こう考えるべきと無意識のうちに社会が私たちに信じ込ませている価値のことを指します。とくに美醜の価値などの優劣の価値は私たちを束縛する強力な「掟」です。)に囚われねじれてしまった心をねじり返して健全な精神を取り戻させる力を持っています。

画像2

ひょっとしたら、私たちにはこの「ユーモア」が足りないのかもしれません。不安になりすぎて、心が弱くなってしまいすぎているかもしれません。

「弱さ」それ自体は別に悪くないものなのですが、社会が自分の「弱さ」を受け容れてくれないと思って落胆したり、不安を抱いたりしてしまうことは、私たちの心身に悪影響を与えます。だからもちろん「弱さ」を受け容れる社会的インフラが整うことは、とても大切です。

ただし、私は美学者なので、そうした社会福祉的なことや社会政策的な議論は、他の専門家にお任せして、私はこの問題を心の形の問題、また笑いの力の問題として捉えようと思います。つまり、私の専門分野から一言申すならば、私たちには「弱くても平気」と思わせてくれる「ユーモア」の気分がどうも足りないようです。

この足りなさは、例えば、テレビなどで見るお笑い芸人のパフォーマンスにも言えそうです。最近は、「優しい」笑いが台頭してきたなどと言われます。これはこれとして、私もちゃんと研究してみたいと思っておりますが、むしろ台頭するべきは、人が「掟」に囚われすぎないようにする「ユーモア」の笑いのように思うのです。これがしかし、とても難しい。

画像1

なぜなら、「ユーモア」の笑いは、私の定義からして反社会的な部分を持ちます。これが、いまの日本社会では、とても警戒されます。どうしてかというと、「反社会的」であることは、「脱社会的」であり、そうした存在は社会が「脱」(排除)しても良いと、そういうことになっても致し方ないと人々が思ってしまっている、思い込まされてしまっているからです。

いまの日本社会は「排除」されてしまうことを極度に恐れる社会になってしまっています。「排除」されてしまうくらいならば、黙って従っていよう、という気分が蔓延してしまっています。

ほんの20年くらい前、いま35から40歳くらいの女性たちの何人かは「マンバギャル」でした。彼らは、社会がどう思おうと気にせず、男性からモテないことにも動じることなく、ヘンテコなメイクで渋谷の街を闊歩していました。あれから20年、いまの若者を見ていると、奇抜な格好をするタイプは極端に少なくなり、外見や言動が無難になり、総体的に保守的になりました。この二つを比較すると、私はやはり「排除」の不安という問題を考えざるを得ません。

どうしたら、「ユーモア」は私たち日本人の手に届くのでしょうか。本書が考えたことの一つは、そうした問いでした。

新刊です。ぜひ、クリックして、本書のことをさらにチェックしてみてください。↓


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?