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わたしの1番大切な。

金木犀のいい匂いが、部屋の中に漂ってきています。
ああ、もう秋なんだなあ。

金木犀は花が散ると掃除が大変だけれども、この匂いがたまらなく素敵だから、そのくらい些事だとも思ってしまう。

や、本当に掃除は大変なんですけれどね、うん。

さてさて、1ヶ月書くチャレンジ、いっきますよ〜!


わたしの1番大切な。


1ヶ月書くチャレンジの今日のお題は、「あなたの1番大切な人」です。このお題を見たときに、わたしは首を傾げました。

うーん、「ひと」じゃなくちゃいけないのかしら。

わたしにとって1番大切な存在は、飼っている猫です。間違いなく、揺らぐことなくナンバーワンと断言できる。

人はね、……家族がもういないから1番大切な人って断言しづらいのですよ。家族が生きていたら、間違いなく1番大切な「人たち」になっていたと思うけれど、もういないんだもの。恋人もいない。

付き合いのある知人や友人はいるけれど、1番大切かといえば首を振ってしまう。大切には違いないけれど、1番ではありません。たぶんお互いに、相手を1番大切だとは思ってないと思います。

残念かな?

でもわたし自身は残念に感じていません。そもそも「1番大切」と言い切るには、知人友人では難しいのではないかなあ、と考えているから。

知人友人より家族や恋人が近しいし、大切にしなくちゃ、という固定概念があるのですね。だから家族も恋人もいないいまは、「1番大切な人」はいない。「1番大切な存在」は家族として飼っている猫になります。

1番大切と言い切ることへの畏れ


それに、ちょっとしたおそれもあります。

たとえばね、知人友人にすぎない存在を「わたしの1番大切な人」と紹介することがあったら、それ、相手にとって負担になるのではないかなあと考えてしまうのですよ。

「母親代わりだと自認してくれる人」「姉がわりになってくれる人」「家族みたいに仲良しな人」と紹介するのとはちょっと違う。

たくさんいる知人友人から、わざわざ特定の人を「わたしの1番大切な人」と紹介すると、なんとなく、相手にもわたし自身を「わたしにとってもきむのちゃんは1番大切な人ですよ」と紹介させることを、暗に求めているような、強制力があるように感じます。

知人友人には、恋人や家族がいて、わたしは絶対に1番大切ではないのに。

なんだか、叶わない片想いをあらわにしているみたい。

だからわたしには、「1番大切な人」はいません。

大切は増えていく。


ただ、友達が以前、言っていた言葉があります。好きという感情は、分けて減っていくものではなくて、どんどん大きく増えていくものだと。

その言葉を聞いた時には、よくわかっていなかったのだけど。

いまならわかるような気がします。

好きという気持ち、大切だという気持ちは、もともと存在する容量を分け与えるものじゃない。一定量のものがポワンポワンと増えていくのなんだなあ、と。そしてますます、その一定量の感情が育っていくものなんだなあ、と。

たとえば、わたしは1番大切な存在として、飼っている猫だと書きました。

でね、その猫をきっかけに、他の猫に対しても、好きという気持ちが育ってきたんですよ。具体的には、地域猫活動を始めました。通りすがりの、えんもゆかりもない野良猫たちでしたが、毎朝、毎晩、ごはんを与えたりしているうちに、情が育っていきます。姿を見せなかったら心配になるし、怪我をしていたら手当てをしたくなる。

野良猫たちだって、わたしにとってはもう、大切な存在になったのです。

だから本当は、「1番」と決めつけることはナンセンスかもしれませんね。


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