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<連載小説>昨日のような、明日を生きよう<23>

第三章 綾 入園式

 暖かい空気に、綾は大きなあくびを一つ、した。
「眠い?」
 問いかける母に、綾は首を振って返事をする。
「んーん、大丈夫」
 お気に入りの黄色い登園帽に、紺色の制服、新品の一張羅がほのかに香り、誇らしい。
 春の街路は色とりどりだ。桜のピンク、空の青、子供たちの黄色い声、それらが綾の心を浮き立たせていた。
「チチ、ハハ、早くいこーよ」
 綾は両手を引っ張る。そこには大好きな父親と母親の手がある。今日だけは晴太はお留守番だ。勇希の実家に預けてある。随分と行きたがってぐずったのだが、帰りにお土産を買ってくることで納得してもらった。今夜はご馳走だ、それだけで心がウキウキする。
 勇希と宮子は綾の速度にたたらを踏みつつ、やや駆け足になった。幼稚園はすぐそこだ。黄色い帽子の集団が、あちこちから集まってくる。まるでひよこのパレードだ。
 綾の隣を駆け抜けていく男の子がいた。つられて綾の足も早まる。園の門が見えた。園長先生が出迎えてくれている。
「おはようございます」
「おはよーございます!」
 綾は元気にあいさつした。足がピタリと止まる。
「おはようございます。これからよろしくお願いします」
 勇希が家族を代表してあいさつする。
「おはようございます。こちらこそよろしくお願いします。どうぞ講堂へ。入口に先生が立ってますから、その指示に従ってください」
 言われた通りに講堂に向かうと、先生がパンフレットを渡してくれた。
「席順はお名前順になっています。椅子に名前を貼っていますから」
 講堂に入るとパイプ椅子が並び、正面に国旗と花束、それから横断幕に「第57期 のびるこ幼稚園入園式」と書いてある。
 勇希がパイプ椅子の背に書いてある「太田綾」の字を見つけると、綾を真ん中にして座る。
 綾はドキドキしていた。正直、園長先生のお話は少し長くて退屈したけど、周りのお友達の中で騒がしい子やウロウロしている子もいたけど、今日からは幼稚園生なんだって自覚が湧いてきて、我慢できた。
 親から離れ、壇上に上がる時にお花の名札を付けてもらったり、一人ずつ名前とあいさつをするのも、とても大人扱いされているみたいで嬉しかった。
「では、これからそれぞれの教室に行きましょう。もも組さんは渡辺先生について行ってください」
「はい、じゃあもも組さん手をあげてください」
 言われて、綾は元気よく手を挙げた。と、隣の子が何やらもじもじしている。この子ももも組なのに、と綾は思い「どうしたの?」と声をかけてみた。
「う」
 その子は泣きそうな顔になりながら、一言、そう言った。
「う?」
 おうむ返しにそういうと、綾のを手つかんでくる。
「うんこ」
 ギクリと体がきしむ。やばいこの子うんこ漏らしそうだ。綾はとっさに大声を上げた。
「せんせー、この子うんこだって!」
 緊迫感のある声音に周囲が一瞬静まり返る。綾の手を握る力が少し強くなった。非難されているのかと思ったら「もう、漏れる」と泣きながら訴えてくる。
 その次の瞬間からの渡辺先生の動きは早かった。即座にその子の手を取ると体を抱え、壇上から駆け降りる。そのカバーに隣のわかば組から田中先生が出てきた。
「さあもも組さんはわかば組と一緒に教室に行こうか。渡辺先生は後から来るから心配しなくていいぞ。あと、トイレに行きたい子は手を上げてくれよ」
 田中先生の声で何人かが手を上げた。即座に他の先生が子供たちを連れて出ていく。何が何だか分からない内に子供たちは壇上から教室に出ていき、園長先生が話し始めた。
「では親御さんたちにはこれから事務連絡を行います。その後に子供たちの教室に行っていただいて、本日の入園式は終了です」
 勇希はこっそりと宮子に話しかける。
「あの子、トイレ間に合ったのかな」
「こら、変なこと言わないの。大丈夫だったんじゃない」
 そういう宮子もクスッと笑った。
 ちょっとしたハプニングもあったが、良い入園式だった。図らずして先生たちの対応力も知れたし、綾もとても楽しそうにしていた。
 勇希も宮子も一安心して事務連絡後に教室に向かう。そこには手遊び歌で遊んでいる子供たちがいた。
「はい、じゃあ今日の入園式はこれでおしまいです。明日も元気に来てくれるかな?」
「はーい!」
 全員が大きく手を上げる。
「それではごあいさつしましょう。先生さようなら、皆さんさようなら」
 子供たちが復唱する。
 席を立った綾は父と母を見つけると駆け寄ってきた。
「チチ、ハハ、楽しかった!」
「そっか、楽しかったか。明日からも元気に行けそうだな」
「うんっ!」
 帰途に着き、綾はまた両親の手を握って帰る。
 たった数時間の出来事だった。それなのに、とても長い時間幼稚園にいた気がする。綾は胸も頭もいっぱいで、なんだか体から湯気が出ているような気分になった。
 小鳥のさえずりが聞こえる。猫たちが遊んでいる。
 明日からはたくさんの友達が待っている。

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