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僕という人間の行動原理


こんにちは。書きかけの下書きがたくさん溜まっている今日この頃です。どんだけ遅筆やねん。遅筆っていうか三日坊主?

普段、自分の記事を人に読ませるということはしない僕ですが、今回は思い切って人様の目につくところに置くことに決めました。(それでも数人しか読んでねえよってオチかもしれませんが。)

理由を一言で言えば、似たような悩みを抱えているor経験している誰かが僕を助けてくれるかもしれないと思ったから。

自分の人生の中でもなかなか大きな価値観のアップデートがこの2月に行われました。それも決してポジティブな意味ではなく。今までの自分が全否定されるような感覚にさえ陥りました。ひいては手に取った雪の結晶がその形を崩していく時のように、自分の将来像が音もなく目の前から消え去っていくような心地になりました。

そして今はあらゆることへのモチベが湧かないという状態に至っているわけです。仰々しい言い方をするのならば人生に行き詰まっているわけです。

そんな状態に至るまでのの僕の心境を自分なりに丁寧に1つ1つ言語に落とし込んでいったら、ふとこれを見た誰かか今の僕を救ってくれるのではないか。共感した誰かが答えを提示してくれるのではないか。そのような藁にもすがるような思いからこの記事の執筆・公開に至るわけです。

もしかしたら誰にも理解されないかもしれない。自分の気持ちを綺麗に言語化できなかもしれない。そんな恐怖がないわけではありません。しかし、ぐずぐず悩んでいても仕方ありませんね。書いてみなきゃわからないってことでやってみます。

本題に入りましょう。テーマは「僕の行動理念と将来」です。「そんなことに興味はない」とか思った?そこは僕を助けると思ってなんとか(土下座)。

まずは、なぜ僕が自分の行動理念なんかについて考え始めたのか、まずはそのきっかけと経緯についてお話ししたいと思います。




第1節 進振りと3つの挫折

自分の行動理念について考えるに至る一番初めのきっかけとなったのは、2A(大学2年生の後期)での3つの挫折です。話の前提であるので少々長いですがお付き合いください。(それでもだるいわって人は第2節までとばしてください)

2年生の8月、僕は「進振り」という一つの大きな節目を迎えます。

「進振り」について少し補足しときます。僕が所属している大学には「進振り制度」というものがあります。弊学では、入学と同時に文理関係なく「教養学部」という学部にぶっ込まれます。1年生〜2年生の前期の期間で、幅広いことを学んだ上で(履修授業には文理差あり)、2年生の夏休みに成績が高い人から順番に希望する専攻(=所属学部)を決めていくというシステム、それが「進振り」です(詳しくは他のウェブサイトへ)。

そのようなシステムを取ると、必然的に人気・不人気の学部が出てくるわけですね。そして、これも当たり前ですが、人気の学部に行くためには、優秀な成績が求められると。

そして成績が中途半端によかった僕は、

「せっかくだから良い成績を生かして人気の学部(=評価の高い学部)に行こう。就職ウケとか良さそうだし。ついでになんとなく憧れの職業として挙げてた外交官にもなれそうやな、よし、ここやでえwww」

と、文系の最難関の学部(学科)の一つとしても数えられている、通称「国関」という後期教養学部の学科に進学することを決め、無事内定をもらうことができました。

(この志のへったくれもない選択が今の自分の心の呪縛を生んでしまうとは当時知る由もありませんでした。)

2年生9月、国関の授業が始まりました。正直楽なものではありませんでした。必修の授業で専門的な30~40ページの英語論文を毎週読まされました。それ以外でも、学部柄ゼミ形式の授業が多いから予習復習でてんやわんや。

僕は苦しみつつもなんとか毎週の授業と課題をこなしました。授業に遅れをとるようなこともありませんでした。僕の勉学レベルと大学の授業レベルがうまい均衡を保ちつつ日々は進んでいくのでした。

そんな均衡が崩れたのは授業内容が高度化し、また学期末に向けて課題が提出され始めた1月。ここから私の挫折ラッシュが始まります。

挫折その1。それは必修の授業「国際政治」で起こりました。年末を前に世の中が慌ただしく2020年のやり残しを片付ける12月某日、とある小論文課題が授業で出題されました。が、わからない。どんなに考えてもわからない。年末年始を全返上で文献もあたったがわからない。

そしてそのままわからないままの状態で書いた論文を提出。案の定評価は落第スレスレ。「そんなことで」って思うかもしれないけど、勉強に関しては今まで大体やればなんとかなってた僕のくだらんプライドを打ち砕くのには十分な出来事だったのです。

挫折その2。僕はとある政治学の授業をとっておりました。しかしそれがまあわからん。そして終始わからんまま学期の授業が終わってしまい、テークホーム試験なるものが出されました。うん、わからん。元同クラの同じ授業を履修していた御二方もそんな状態だったということで、僕含めた計3人で勉強会を開いたんですが、根本的な理解の度合いに差があったせいで、僕はほぼ戦力外。ただ助けられるだけで終わりました。何もできずに助けられていたことに対する申し訳なさと自分の無力への怒りが入り混じった感情が僕を襲いました。

さらにそのテークホーム試験なるものの出来の方もお察しって感じでしたね。「あ、自分ってこんなに政治学苦手なんだ」って思うくらいには内容が終わってました。

(ちなみにそのテークホーム試験はその同クラの協力によって乗り越えられました。この場をお借りしていいます。ありがとうございました。あと、一応提出はしたんだから単位こい。)

挫折その3。1月はレポート12本の締め切りが控えていて、キャッパキャパ。どのくらいキャパったかというと、1本のレポートを2日で仕上げる×12セットを繰り返していました。「お勉強」は得意でも、「文章が読めない、日本語が書けない」といった東大生にあるまじき欠陥を抱えるくらいにアカデミックな営みが不得意な僕は、レポート執筆の要領が非常に悪くほぼ毎日徹夜。そしてそんな状態が何日も続くと何が起こるかというと、思考力の機能停止です。1月中旬以降の僕はただの哀しき資源ゴミ製造マシーンと化していました。レポート12本中最後の6本とかは駄作でしたね。

(まあよく考えたら、授業の予習復習だけでカレンダーの日付を進める生活をしていた人間に授業+学期末課題ときたらそりゃキャパるわなというお話。)

閑話休題。学期を通してサボっていたわけでは全くない、それどころか1日の起床時間の9割は勉学に費やしていたのに、僕の学期中の積み重ねを嘲笑うかのように大量の課題とタイトな提出締め切り日が押し寄せる。自分の出来の悪さと要領の悪さによって引き起こされたその事実が、僕のしがない自尊心を傷つけました。「自分ってこんなに要領悪かったっけ、こんなにできない子だったっけ」ってつい自問自答を繰り返してしまいました。その反面、割と同期はそつなく課題をこなしていた印象。それが自己肯定感の低下に拍車をかけたのでした。

以上、僕がこの半年に味わった挫折です。一言でまとめるのなら「自分の実力じゃどうにもならない出来事を味わった2A」でした。




第1.5節 敗因分析

以下、2Aの敗因分析をしていこうと思います。「行動理念」と何の関係があるんだよって思われる方がいるかもしれないのですが、できるだけ僕の考えることを正確に伝えたいのでここもしばしお付き合いください。

直接的な敗因は以下の3つに集約されるかなと思います。

敗因その1:専門課程に進むにあたっての予備知識がそもそもなかった

まず挫折の原因の大きな理由の一つとしてこちらが取り上げられます。先ほど説明した通り、僕の通う大学では「進振り制度」が教育システムとして採用されています。そのシステムを思い出してみて欲しいのですが、進振り制度とは「成績が高い人から順番に希望する専攻(=所属学部)を決めていくというシステム」でした。

これって換言すれば「成績さえ良ければどの学部でもいける」ということなんですね。「成績さえ良ければ」ということは、その学部の分野の基礎知識がなくとも、希望する学部には進めてしまうということです。

もうここで何が言いたいかはわかると思うんですけど、僕は1・2年の間にまともに政治学・社会学の授業を履修してなかったんです(政治学・社会学関連でとっていたのは「国際関係論」という2単位の授業くらい)。つまり予備知識がないと。

予備知識がない人のパフォーマンスと予備知識がある人のパフォーマンスの違いがあるのは至極当然だと言えます。それが、「わからない→要領が悪くなる→ゴミレポートを製造する」といった負の連鎖を引き起こし、3つの挫折へとつながってしまったのかなと思います。

敗因その2:言語能力が低すぎる

僕という人間は元来「読書が心の底から大好きだ」とか「学びって楽しい」とかって思うような人間ではないので自主的に読書をするという習慣がありませんでした。

結果どうなったか。言語感覚が著しく鈍い人間が出来上がりました。

よくよく考えたら受験の時も一番出来が悪かったのは国語。文章を読んでいてもその実何も理解していない。いわゆる「文章が読めない現代人」の好例です。例えば、最近読んでいる本に次のような一節があります。

「社会的秩序に対するどの程度の敵意が、あるいはどの程度の断固たる擁護が政治体制の危機を促進するのか。そして政治的秩序の正統性のどの程度の弱体化や喪失が経済的・社会的問題を悪化させるのか。これらを正確に指摘するのは困難であるし、個別の事例について判断すべきであろう。しかしながら、〔政治体制の危機と経済的・社会的危機の昂進という〕2つの過程は現実にはともに起こりうる。にもかかわらず本研究の理論的目的のためには、両者が分析のうえで区別できることを強調しなければならない。」(ファン・リンス著、横田正顕訳『民主主義の崩壊−危機・崩壊・再均衡』、岩波文庫、2020年、41頁。)

半年前の僕だったら全く理解できなかったでしょう。少々敗因1と重なるところですが、「正統性ってなによ」から始まっていたと思います。さらに悪いことには、半年前の自分であればその分かってないことがわからないorわからないことをそのままにしていたと思います。ついでに言うなら、この文章に関して「なんで区別しなきゃいかんのよ、てか何を区別すんのよ」とかそんな疑問も抱いていたと思います。というかぶっちゃけ今でもこの1節を100%理解できてないです。

こんな感じで言語感覚の鈍い僕はまず「文献を読めない」ところから始まります。

言語感覚が鈍いと言うことは何も「読めない」ことだけを指すのではありません。「書けない」ことも指します。

この文章をお読みいただいてわかるように僕は日本語を書くのが得意ではありません。冗長になったり関係のないことを書いたりetc.。

レポート作成において「読めない」×「書けない」が化学反応(ケミストリー)を起こした結果、「レポート執筆の要領が悪い上に大したことをかけない」東大生が爆誕したのでした。

敗因その3:モチベーションの上下が激しかった

学期中たくさんの「時間」を勉学に費やしたと言いましたが、「質」はその時々によってまちまちでした。それはやはりモチベーションに起因するものでした。これ以上語ることがないのでモチベーションについては以上()。




第2節 冬休みに入っても続く呪縛

さて、精神的にも体力的にも苦しんだ前述2Aの6ヶ月間を終えた僕は「しばらく休もう」となっていました。と言うわけで布団の中で惰眠を貪りつつTwitterを巡回していました。

そんな中でふとみたとある方々(誰かは特定できていません。また覚えていません)のツイート。その内容の要旨はこんな感じ(うろ覚え)。

「2Aの授業は辛かったけど楽しかった。これからは興味のある分野の本をさらに読みたい。」「関心領域はここだからこんなことをしてみよう。」etc

嘘だろって感じでした。

あんなに辛かった2Aを終えてもなおさらに勉学に励む。自分がこうやって布団でだらけている間にもさらに努力を続けている。しかも自分よりもアカデミックな部分がずっと優れていて、ひいては人間としての思考力も何千倍もある人たちが。

それが自分にさらなる焦りを生みました。

(ちなみに「頑張っても頑張らなくても辛い」は本当に至言です。頑張っているときには周りのレベルや自分の理想のレベルと自分の現状との乖離に苦しんだ癖に、がんばらなかったらそういうところの焦燥感でどんどん心が削られていくからです。)

閑話休題。今回の2Aは「自分なりに努力しても」結果を残せなかった。追いつけなかった。ダメだった。だから「頑張ること」から一旦逃げた。そしたらこれです。

何が彼らと僕を分けるのか、何が僕をこうしてしまったのか、そんなことを考えてたら軽く憂鬱になってしまいました。




第3節 とある文学との出会いと自分の行動理念

この節から何となくタイトルの本題がはじまっていくって感じです。ご辛抱いただきありがとうございました。

世の中はコロナ禍だろうがなんだろうが動き続けているのにも拘らず、立ち止まっている自分に嫌気がさした僕は、いったん世の中から自分を隔離()するために、趣味であるアニメ視聴・漫画ラノベ読書に一旦没頭することに決めました。そしてとあるライトノベルに出会います。

そのライトノベルとは『弱キャラ友崎くん』(ガガガ文庫)です。

『弱キャラ友崎くん』は今期アニメ化されており、視聴していたらどハマりしてしまいました。どのくらいハマっているかというと月4で聖地である大宮に訪れるくらいにはハマってます。

そして、原作小説にも手を伸ばしてみたくなった結果、計11巻にも及ぶ原作を購入、3日間で読み切ってしまいました。

当該作品には様々なテーマがあるのですが、(ネタバレ注意)その中の一つとして存在するのが

「『本当にやりたいことである』というだけで具体的な理屈や根拠なしに努力ができる主人公と『正しいことであるから』という理由がないと努力ができない副主人公。同じ『努力』をする両者ではあるが、『やりたいこと』という動機がある前者の方が後者よりも強い。」

的なことなんですね。(うまく要約できた気がしませんが。)


そしてその作品を最新刊まで読み終えたとき、ふと心の中の卑屈な自分の囁きが聞こえました。一気に現実に引き戻すかのように。


「お前よりすごい奴らは『興味があるから、好きだから』という理由でこの学部に来て努力をしている。それに対してお前は心の底から社会学を好きなわけでもないのにこの学部にきたんだな。だからお前は失敗するんだ。」


自分で自分の図星をついたようでした。かくれんぼで自分の隠れる押し入れの扉が開けられるのを内側からみているような感覚とその扉を開けたのが自分であるのを不思議に思う感情が同時に訪れました。


「周りは『好きで、やりたくて』学問に励んでいるのに対し、自分は別に『心の底から』社会学や大学の学問を好きなわけではない」という事実。


なぜ自分はとりあえず"努力"をしていたはずなのに2Aで大失敗をしたのか、なぜ自分には予備知識がなかったのか、なぜ自分は本を読んでこなかったのか(なぜ言語能力が低いのか)、なぜ春休みに入った途端に勉強・研究をするモチベーションが消え去ったのか、なぜそもそも「モチベーション」などというものに左右されていたのかetc.


自分に囁かれた事実はこれらの疑問を全て説明してしまうのです。


「好きじゃないから「やれ」と言われたこと以外はしない。

予備知識なんて自学でつくわけがない(自学なんてするわけない)。

読書だってそこまで好きじゃないし義務じゃないから自分からしない。

好きじゃないから「必修の授業で専門的な30~40ページの英語論文を毎週読ま『されました』」なんて言い方をしてしまう。

好きじゃないからモチベーションなんてものに左右される。

モチベーション依存だから努力の質にどうしても差が出てしまう。

つまり「好きだから、やりたいから」という根拠を伴わない努力は必ずどこかで頭打ちが来る。

その頭打ちがたった今訪れただけである。」

と。



ここで1つの疑問が湧き上がりました。



優秀な人の行動(努力)の根拠は「好きなことをする、やりたいことをやる、興味のあることをやる」でした。



じゃあ僕の行動の根拠、すなわち行動原理とはなんだったのか?



ゆっくりと自分の人生を振り返りました。



そして、僕の人生の行動・選択の理由の全てを説明する一つの答えが浮かび上がりました。




僕の絶対不変で至上の行動原理は



「他者から認められることをする、自己承認欲求を満たせることをする」



だったのです。






第4節 僕の過去と行動理念

前節の通り、結局僕の行動理念は「自己承認欲求を満たす」ことに集約されるわけです。

「自己承認欲求を持つのは人間として当たり前だろうが」って思う方ももしかしたらいるかもしれません。

でも僕の場合は、その自己承認欲求の充足を絶対不変の行動理念としていたところに大きな問題があるのです。

何気ない日常の行動から人生を左右する選択まで、僕の今までの行動・選択の9割は「周りが自分を認めてくれるだろうか」ということを基に為されてきたのです。

自分で言うのもおかしいですが、はっきり言って異常です。

「本当にそう(=行動理念が「自己承認欲求の充足」)なのか?」「そこまで異常なことなのか?」そういった疑問にお答えするために少々僕の過去の行動・選択についての語りに付き合っていただきます。

後述しますが、僕の行動理念がそうなってしまったであろうと思われる時期は、中学2年生のころです。どーでもいいけど過去(特に思春期の頃)の自分って振り返ると○にたくなるよね。黒歴史だわ。


中学2年生の頃、僕は生徒会役員に立候補しました。これは「認められたい、褒められたい」という感情が原因。

中学2年生の頃には勉強にも全力投球し始めました。これも「褒められたい」という感情が原因。

中学3年生の頃は、とある進学校への合格に向けて努力しました。これも「少しでもいい学校行って認められたい、モテたい()」という感情が原因。

高校生になった直後、僕は部活の選択に迫られます。その時文化部は真っ先に切りました。なぜなら、運動部の方がウケがいいから、外聞いいから、モテるから()。

高校3年生になって志望大学を学校に提出する時がありました。「東京大学」と書いて提出しました。理由は(以下略

(ちなみにそれなりの進学校に行っても運動部に入っても東大に入ってもモテるなどと言うことは一切ありませんでした。僕入学式の祝辞で「東大生はモテます」とか言われたんだけど?おかしいなあ?)


少なくとも今の記述で僕は「人生の重要な場面においてさえブレずに『自己承認欲求』に基づいて」行動・選択を行なっていることがわかると思います。今は触れなかったけど日常でも多々そういうことはある()。

ちなみに、自己承認欲求だけを燃料としてそれなりの努力をして一応は東大に入ってしまうわけだから、僕の承認欲求って相当歪んでますよね。そんな事実がまた僕を恐怖に陥れるのです。


ちなみに大学生になってもこの行動理念は変わってません。


第0節の最初を思い出してみて欲しいのですが、僕が現在の学部を選んだ理由はなんだったでしょうか。


理由は2つ。

1.評価の高い学部だから。

2.外交官になれるコースだったから。


1ってもう完全に”それ”の表れですよね。

2に関しては、当時「外交官になりたかったから」というのが理由なわけですが、じゃあなぜ外交官になりたかったかというと「かっこいい」から。

(まあ一応「世界中の人と言語の壁を超えてコミュニケーションをとれるのがなんとなく楽しそうだったから」という理由もありますが、そしたら外交官である必要はないわけで...)

要は社会的評価も高く、かっこいいという理由で外交官を目指していたわけです。これも僕の”それ”の表れですよね。


ちなみに別記事で紹介しましたが僕が昨年夏にTOEFLや英検1級を取得したのも「持ってた方が英語喋れることをアピールできてかっこいいから」という理由です。(TOEFLに関しては胸を張れる点数では全くありませんがね...)


まあこんな感じでダラダラ書きましたが、言いたいことは、僕は気持ちが悪いくらいまでに「承認欲求」というモンスターに取り憑かれながら人生を過ごしてきたんだよってことですね。



第4.5節 いかにして承認欲求モンスターと化したか

この疑問については僕の過去(幼少期と思春期)が大きく関係していると自己分析しています。

僕は生まれつき何かの才能があったりしたわけでは全くありません。

運動神経は悪い、顔の作りは美しくない、体格は弱々しい、頭は悪い、コミュニケーションが苦手etc.

といった感じの絵に描いた弱キャラでした。

幼少期や思春期はそれが災いして「バカ」「キモい」「ダサい」「近寄るな」などと言った言葉を同級生から結構な頻度でかけられたり、顔や姿を見られれば笑われたりするといったことが普通にありました。「イキんな陰キャ」とかもあったっけ。

(念の為注意しておくと、決していじめられていたわけではありません。幼小中時代は僕と仲良くしてくれる人の方がどちらかといえば多かったですし、人並みには楽しく幼少期を過ごせたと思っています。また家庭にも恵まれ、いつも僕の意志や決定を尊重してくれる人を親に持ったことは本当に感謝です。)

ただ、やはり漫画みたいに酷くはないにしてもナイーブな時期にそういう扱いを受けた経験っていうのはなかなか消えないものです。

「人に見下されないようになりたい」「自分の好む相手に嫌われたくない、好かれたい」「みんなから尊敬されるようになりたい」「バカにしてきた奴らを見返したい」

そんな思いを金羅少年は抱いていくようになるのです。

そしてそれが「承認欲求」という行動理念を形成したのでした。




第5節 今のこととこれからのこと

授業期間が終わったこの2月は何もできませんでした。勉強もせず運動もせずバイトも最低限しかせず日々無気力。そんな無気力状態に嫌気がさして、お出かけやお買い物をたくさんしたりするも全く状況が好転せず。


そんな中でふと出会ったラノベ(アニメ)をきっかけとした自己分析。


その中で気づいた「自分という人間の行動理念(=自己承認欲求を満たすこと)」と「それを動機とした努力」の限界。

そして感じた「今までの自分」の限界。

ひいては20年積み上げてきた自己が否定された感覚。

崩れていく将来への展望。

出てこない勉強・研究へのやる気。


これが今の僕の悩みです。


「僕もやりたいことを突き詰めるべきか、でも本当に心の底からやりたいと言えることはない」「一応はあるけど非現実的な目標だ」「じゃあ勉強するか」「でもそれじゃ勝てないし周りについていくことができない」「じゃあやっぱりやりたいことを(ry」


の繰り返しです。どうしたらいいんですかね。


多くの大学生みたいに、大企業とか中央省庁目指して大人しく社会のレールに乗ってた方がいいんですかね。


やりたいことやってみてもいいんですかね。


わかりません。


ただ一つ言えることは自己の変革が今は絶対に必要だということ。

その方向性を決めるために残りの春休みは使ってみようと思います。



今回の記事は以上となります。1万文字も書いてしまった()。自分の頭の中でゴチャゴチャになっていたことがどれだけ綺麗に言語化できたかというのは読んでいる皆さんの批判を仰がなければなりません。あと僕の書いている内容で気分を害された方がいたのなら本当に申し訳ございません。


しかしながら、論理等々を少し忘れながら自分の思いを綴ってみるというのはなかなか悪くない経験でした。今後も人生に迷ったら言語化して気持ちを整理することを試みようと思います。


もし何かアドバイスのある人、共感してくれた人、説教してくれる人等々コメントお待ちしています。


読みにくい文章であったと思いますが、最後までお読みいただき本当に本当にありがとうございました。

( 2021年 3月9日 都内某所 金羅)


追記(2021/03/11)

2021/03/11現在で累計200viewを突破しました。

本当に思った以上にたくさんの方に読んでいただけているみたいで感謝の言葉もありません。

また、コメントをくださった方々にも改めて厚く御礼申し上げます。

追記2(2022/11/13)

まだ"答え"は見つけていないけど、僕は今はアメリカにいます。なんだかんだで前には進めている気がします。でもそう思えるようになったのはごく最近。
辛くなくなるのはいつかは分からないけど、辛くなくなるまでぜひとももがいてください。

補遺 歳下の人々に向けて

僭越ながら今人生の決断を目の前にしている人々にアドバイスのようなものを残させていただきたいと思います。僕のような思いはしてほしくないので。


今小中高生の人は今のうちに「本当にやりたいこと」を人に伝えられる形で明確にしておくこと。そしてそれをもとに進路を決定して欲しいです。

外聞など一切気にしないでください。

やりたいことをやっている人がこの現代社会においては1番強い人なので。

就職とかもあまり考えないで欲しいです。

何もいい企業に就くことが幸せではないと思うので。

自分のやりたいことをやった方が将来的な幸せにつながる、と思ってます。


東大1年生については進振り・進学先選択はしっかりとした理由とともに行ってください。自分の興味のある分野を選んでください。

自分の興味が頑張るモチベーションになります。


僕は自分の意思確認を怠ったので今とても苦しんでいます。こうはなってほしくありません。どうか後悔のない選択を。

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