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生田絵梨花卒業コンサート〜その構造にみる"しあわせ"の正体〜

伝統文化とはほんらい保守的で排他的で差別的なものだ。いったんある地域の中で生まれるとその領域の中だけで成熟してゆく。そして伝統という名の鎧をまとう。(中略)その間、その領域以外の異分子との交流はない。いや、むしろそういったものを排除しながら、その領域の内側だけで洗練されてゆく。(中略)ヒトの文化はそうやって閉じられた中で成熟し、伝統となり、その成熟が頂点に達し、その領域で支えられる限界にまで膨れ上がった頃、それを待っていたかのように異分子が入り込む。そのことで領域の垣根が崩れ、伝統の限られた縛りから放たれ、文化は外の世界へ出てゆくことになる。"『クラシックとジャズの対話 音楽の黙示録(森本恭正・南博 共著)』より抜粋"

先日の生田絵梨花卒業コンサートでステージの彼女らが見せた光景は、まさに「成熟が頂点に達し、その領域で支えられる限界にまで膨れ上がった」状態だと感じた。

本公演の後半ブロック。生田絵梨花の「今までのダンサブルな楽曲に対して、もう少し貪欲になれたんじゃないかという気持ちはある。(そのダンサブルな側面を)担ってきた人たちにはリスペクトしている」という証言とともに『命は美しい(2015年)』をはじめ『インフルエンサー(2017年)』『シンクロニシティ(2018年)』『Sing Out!(2019年)』といった、今日までのグループの特性を形成する要素となった楽曲たちを時系列に沿った形で実演した。この丁寧な流れの中で唯一、2016年が抜け落ちているという指摘はもはや無粋であろう。本公演で『サヨナラの意味』や『孤独な青空』といった、2016年リリースかつ橋本奈々未という存在が強く提示される楽曲が披露されていないことに彼女の存在を無視する意図はない。これは前述した通り、あくまで今日までのグループの特性を形成する要素をピックアップするためのセットリストであり、もっと言えば本公演が卒業コンサートでありながら、過剰に"喪失"を題材の中心として据えていないことが大きい。生田絵梨花は自分が在籍する最後までこのグループの特性を全面に押し出し、ファンのみならずメンバーに向けて再提示することを選んだ。彼女が卒業することによる大きな損失、それはこの先のグループの楽曲から一切の彼女の<声>が消えるということ。これまでグループ内外問わず高い評価を受け続けてきた彼女の歌唱が2022年からのグループの録音物からすっぱりと消えることの重大性は想像に難くない。本公演のセットリストを確認すると、期別楽曲や生田絵梨花の卒業を記念して制作されたものを除き、2020年以降つまりはコロナ禍以降にリリースされた楽曲がひとつも入っていないことに気づく。たとえ偶然の采配だとしてもコロナ禍という異常な期間における制作物を排除することは、肌感覚では忘れてしまった本来のグループの空気をもう一度浮かび上がらせることに繋がる。2011年から2019年までのグループのクリエイティブをステージに投影することは最も保守的な行動でありながら都合よく言えばノスタルジー的な投影(アイドルの物語消費における必要不可欠なアレ)にも繋げることができる。『シンクロニシティ』や『Sing Out!』といった舞台性の高い演目をコンサートの佳境に設置し、これから先のグループの懸念材料である<声>までをも舞踊の一部として取り込むかの如く、我々観客に対してエネルギーを放出していた。もちろんそのエネルギーはステージ上に立つ彼女たちにもそのまま降り注ぐ。「私がいなくなったあとに、あなたたちはどうするの?」そして「こんなに素敵な手札が揃っているじゃない」などと言わんばかりの贈り物。それは乃木坂46が10周年という節目で実演するステージとしてあまりに的を得ていたと同時に、過去の創作物の力への依存を加速させる魔法のような時間でもあった。これ以上の物語的な成長はあり得ないという事実を突きつけたような気すらした。

冒頭に引用した文章の「その成熟が頂点に達し、その領域で支えられる限界にまで膨れ上がった頃、それを待っていたかのように異分子が入り込む。」という部分。そもそも乃木坂46には既に異分子のようなものの流入によって多少なりの異質な変化が発生している。少なくともコロナ禍以降で挙げるならば、それは『Route 246』と『I see...』の2つである。『Route 246』において小室哲哉を作曲・編曲に起用したことはこれまでのグループのソングライティングの歴史から参照してもかなり異質であることは今更言及するまでもないが、小室哲哉が2010年以降主に女性アイドルや女性シンガーに対して楽曲提供を続けてきた事実を鑑みてもなお、それが乃木坂46というフィルターを媒介することによって珍妙な光景が作り出されてしまったことに違和感を感じざるを得ない。これは非常にネガティブな変化である。対して、もう一つの『I see...』に関しては(これも今になって書き加えることもないが)ミュージック・ビデオが公開された直後SMAPを中心としたジャニーズのファンダムからの注目を集め、結果的にカップリング曲でありながら表題曲の再生回数を越すというグループとしては異例の事態に発展した。乃木坂46のグループの楽曲において長い間言及されることなく影を潜めていたフリーソウルだったりパラダイス・ガラージ調ともいえるアプローチが「SMAP歌謡」として享受されたことは大きな変化であり、これはグループが意図して実践したクリエイティブというよりかは、観客側のグループへと向ける視線の変化に作用された”変化”である。『アナスターシャ』と並んで『I see...』が生田絵梨花の卒業コンサートのセットリストに組み込まれていることは、この曲に寄せられた信頼への回答であり「最後まで与え続けることを選んだ」生田絵梨花でさえ、この曲には羨望を隠さずにいられなかった。言わずもがなポジティブな変化だと思う。

ここまで書いてようやく気づいたのは、この(少なくとも)2つの変化、2度の「異分子の流入」を経てもなお「領域の垣根が崩れ、伝統の限られた縛りから放たれ」ていないということである。どうやら乃木坂46にはこの程度の異分子では簡単に崩せない、どこまでも屈強でどこまでも排他的なコミュニティが生成され続けているらしい。これを幸ととるか不幸ととるかによってファンの立ち位置は明確に変わる。秋元康の手垢が強くこびりついたアイドル像に拒否反応を示し、非力な歌唱や軟派なダンスを指しては技量の育成を望むファンの気持ちを否定するつもりは全くない。だが、生田絵梨花の卒業コンサートを観ていて、まるで「伝統の限られた縛りから放たれ」ることを望むファンを跳ね返すような、あまりに強い骨格を提示されたような気分になった。10年間の歴史の堆積の、その範疇の外を大きく出るような舵切りは不可能ではないかとも思ってしまった。それが良いとか悪いとかそういう話ではなく、とにかく居心地の良い空間の完成。ときに最低限のマナーやルールすら無視してしまう作詞家だったり演出家、メンバーを矢面に立たせて事務所としての必要最低限の態度すら見せない当該スタッフへの文句を除けば、この保守性に少しだけ落ち着きを感じてしまっている自分もいる。2022年、11年目に突入する乃木坂46。ここで息を止めないためには_____この保守性と戦うかどうか。いずれにしても危険性が伴うことは間違いない。

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