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山下美月という"演じるアイドル"〜乃木坂46『僕は僕を好きになる』〜

元来、ミュージック・ビデオというものは、楽曲の持つ情動を視覚的に補完する役割を担っている。乃木坂46において毎シングルに2~3本程度製作されるミュージック・ビデオは、単に楽曲のプロモーションとして機能するだけには留まらず、あらゆる監督や脚本家・カメラマンを起用し、メンバーの可愛い瞬間を切り取るようないわゆる王道のプロモーションムービーというよりかは、綿密に練られた脚本と人物設定に基づいた短編映画のような、どことなく映像世界に傾倒した様相を示してきた。14thシングル『ハルジオンが咲く頃』のミュージック・ビデオ監督を務めた山戸結希監督がこの撮影をきっかけに堀未央奈に目を付け、後の自監督映画の主役に抜擢するなど、乃木坂46にとってミュージック・ビデオをはじめとする映像作品という存在は、切っても切れない関係にある。

ところがここ数年 (筆者は2018年リリースの20thシングル『シンクロニシティー』あたりからだと思っている)、乃木坂46のミュージック・ビデオの作り方は、ドラマシーンを中心としたものからダンスシーンを中心としたコレオグラフィック・ムービーへと変化している。長年にわたってグループの映像製作を担当し、大人数の群舞をカメラに収めるということに比較的慣れたクリエイターにとっては、緻密な脚本や設定の組み立てが不要で一見簡単な作業のように思えるが、アイドルのダンスを撮影したことのない、全く外部の監督が流入した際、その作家性がダンスシーンに与える異物感のようなものを旨味と捉えるかどうかでファンの間での賛否が分かれる。丸山健志監督(『夏のFree&Easy』『インフルエンサー』『夜明けまで強がらなくてもいい』etc...)や池田一真監督(『シンクロニシティ』『Sing Out!』『しあわせの保護色』etc...)のようなほぼグループ専属の映像作家によるミュージック・ビデオでは、アイドルが歌い踊る様が中心となっており、そこに過剰な作家性や思想は反映されていない。基本に忠実なプロモーションムービーといった印象である。対して、映画やドラマといった世界で既に一定のプロップスを得ている監督がゲストのような立ち位置で乃木坂46の作品を手掛ける場合。先日公開された堀未央奈の卒業その楽曲『冷たい水の中』は、監督を務めた山戸結希による映像作品そのものといって良いほど、彼女の作家性が如実に反映された仕上がりとなっている。堀未央奈×山戸結希のコンビが乃木坂46のクリエイティブに残した最後の爪痕と言えるのではないか。

26thシングル『僕が僕を好きになる』のミュージック・ビデオの開幕のダンスシーンを初めて観たとき、監督:奥山大史の作家性が大きく反映されているものとは思えなかった。奥山氏が長編映画『僕はイエス様が嫌い』で見せた、フィルムカメラのような揺らぎを見せる光の濃淡を、このミュージック・ビデオで感じ取ることは難しい。少なくとも、同氏が撮影を担当した米津玄師『カナリヤ』の方がまだ、そのフィルムメイキングを忠実に落とし込んでいると言い切れる。

となれば、ドラマパートではどうか。と言いたいところだが、このミュージック・ビデオにおいて、ダンスシーンとドラマパートの明確な区分けは存在しない。メンバーが歌い踊るシーンも、アイドルの撮影風景の一環として描かれてしまう。グループのミュージック・ビデオ撮影がクランクアップし、センター・山下美月がメンバーと共にロケバスに乗り込む。暗い家路を辿り、ようやく帰宅して家族と食卓を囲んでいる...と思いきや、それは本人が出演するドラマ撮影の現場であることが明かされる。要するに、センター山下美月が、アイドルの本職である"歌い踊る時間"のみならず、家族で食卓を囲んだり、友人とショッピングに出かけ、タクシーに乗ったりする時間までも含めて、ありとあらゆる時間にカメラが向けられているということを、一種のフェイクドキュメンタリー的な視点を交えて落とし込むことで、アイドルという職業が24時間365日ほぼ絶えることなく継続されるものだと提示している。一見アイドルの本職とは切り離されたような行為すらも、彼女を写す鏡として切り取られかねないという啓蒙である。

とはいえ、このようなアイドルにおけるプライバシーの境界線の危うさを映し出すことが今更新鮮な表現とは思えない。普段からブログやモバイルメールなどのコンテンツを通してプライベートの様子をファンに公開するシステムが存在し、ドキュメンタリー映画が公開される度には、アイドルが"アイドルでない時間"と葛藤する様が映し出されてきた。それよりも今回特筆すべきは、その対象が山下美月であることだと考える。彼女は2019年に一度グループの活動を休止している。ドラマ撮影などの過度なスケジュールと体調不良が重なり、グループとしての活動がままならない状態となってしまい、一旦身体を休めることを選択した。このような経験がある人物が初めてセンターを務める楽曲のミュージック・ビデオで、アイドルという職業が抱える大きな問題を表面的に取り上げることに、エンターテイメントの暗部を感じずにはいられなかった。困難を乗り越えた先に辿り着いたセンターというウィニングストーリーというよりかは、活動休止という遍歴が良くも悪くもこの脚本の旨味を増幅させるポイントとして機能しているということ。彼女に背負わせすぎているということである。ファンの間で彼女は、その佇まいや仕事ぶりから"プロ"として評されることが多い。アイドルとして完全無欠といったイメージを抱かれがちな彼女に対して、これ以上の加担は非常に危険だと感じる。アイドルである以前に一人の人間であるということ。今作は、一見ポジティブな仕上がりに見せかけて、アイドルという職業が抱える問題に身をもって向き合った経験のある山下美月が、完全無欠なアイドル像を演じきることに挑んだ、危険な佳作である。

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