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「お節介」やめたい(切実) 。

不幸というものは人をピリピリさせるんだそう。
なるほど、ランニングを我慢していた間は特別にピリピリしていた実感があって、思い当たるフシがありました。ようやく療養期間が終わろうかという今の内に、そのピリピリが元となった失敗談というか経験を書き留めておこうと思います。
いつも正しいことが受け入れられるわけじゃないというはなし。

学生アルバイトで会社生活で正しいことはいつも正しくて、そうやってつくられた「社会的な性格」では正しいことはいつも喜ばれるものだと信じて疑っていなかった。けれど最近、ある本に触れたことで、必ずしもそうではない人もいて、正しいことがいつも受け入れられるわけではないことを知った。そうだとすれば初めて腑に落ちるような経験がこれまでに何度もあったから、すごくショックだった。

「適正」とはいうけど「適」と「正」では少しニュアンスが違っていて、何が言いたいかというと求められているものを上手に把握しないと、程度を間違うとおかしなことになってしまっていけない。そもそもこれまでの人生でずっとそのことが下手で、すぐに供給過剰に陥るのだけどそれはさておいて。特にけがをして不自由な思いをしていた四カ月を振り返ってみると、何度もさじ加減の間違いをしでかしていたことに気付かされた。
けがや病気や他にもいろいろ、不幸というのはひとをピリピリさせる。ピリピリすること単体は仕方のないことだとも思うけど、だからといってひとに嫌な思いをさせたり迷惑をかけたりしていいということじゃないし、マウントを取ったり正しさを押し付けたりしていいわけでもない。

自分の未練を有難いものであるように見せたり、自分だけが知っているように聞きかじりの知識をひけらかしたり、ついでだから白状するけど手の届かないものごとに嫉妬したり窮屈に縛ろうとしたりということもあった。ここしばらく、ずいぶんみっともないことをしていたと思うし、わたしの相手をさせられたひとは嫌な思いをしただろう。
どうしてあんな視界不良に陥っていたのかと赤面したというか激しく後悔さえして、一人ひとり謝罪して回りたくもあり、かといって急に謝ってこられたって気持ち悪がられるだけかもしれないからここに残しておこうと思ったのだけど。

ここまで書いておきながらこれから先も同じ過ちを繰り返してしまいそうだけど、気を付けて控えめに、今後はこれ以上の失敗がないようにしたいところ。この歳で得た学びが性格にどれだけ影響を及ぼすか、変化を楽しむつもりで自分自身の言動や振る舞いに落とし込んでいきたいです。「役に立つひと」にはなりたいけれど「過ぎたお節介」は意図するところではありません。
もしイヤな感じがしたらご指摘ください。よろしくお願いします。

“昔から、私には、奇妙な確信がある。
 それは、私がこうだと思いこんだことは、実にまちがっていることが多い、ということである。初め、私はそのことをひどく恥じた。頭が悪いせいだと思ったり、物を知らないからだと考えたりした。しかし、そのうちに恥じていよう、またまちがえよう、と思うようになった。「私」という人間の特徴は、いい悪いは別として、まちがえることにあるのだし、私の強味は、自分のまちがいを認められるところにあるのかも知れない、と考えるようになった。それは私が、世の中の秀才たちを身近に見て、彼らが、自分のまちがいを許し得ないために、人間味を失い、人間が硬直しているのを見て、少し気の毒になったこともあずかって力がある。”
曽野綾子「人びとの中の私」まえがきより引用

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