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ツイート以上、エッセイ未満ep.2

戦争のことを語ることの難しさに比べれば、戦争と私(たち)の距離感のことを思って言葉にすることはそれほどでもないのだと感じた数日の記録です。

2月24日、木曜日、花粉ひどい
モーリーロバートソン氏のツイートを見ていて、この方を知ったのは「アラブの春」を伝える毎日毎夜のつぶやきだったことを思い出す。
何か大変なことがあると、目に入る情報やニュースの見出しなどがそれ一色に染まり始め、意識が否応なしにそちらに向けられ、自我が無理やり引き延ばされたように肥大する。何かを為さなければならないような心境になったり、手が届きもしないところに向けて心を軋ませてしまったりもする。戦争に限らず自然災害もそうで、当事者性を刺激するきっかけはいくつもある。

想いを言葉やアイコンで表現することや募金のように、身の丈に合ったサイズで世界の懸案事項に関与する行動を尊重したいとは思うけれど、身の丈に合わないものを無理に取り込んで苦しくなってしまわないための狡猾さだって大切だと主張したい。目の前の手が届く場所で起きた出来事にさえ、私たちは手が出せないことがあることを知っている。
結局のところ私(たち)は、これまでの人生で身につけてきたものの中で世界に貢献し続けるために一番効率の良い行動を選ぶことしかできないのだと思って折り合うようにしている。

3月4日、金曜日、花粉すさまじい
ある程度の日数が経過して、他国での戦火にも目を向けよう、シリアがソマリアが陰謀論が、とかいった意見が見えるようになった気がしてる。そういった意見を逆張りだと冷やかすつもりはないけれど、人は当事者でない以上、注目度が薄れると飽きて忘れる生き物で、そのことは世界中を見渡してもあまり大差ない事なのだと思う。
自分の芯に響くことが何かひとつでも残って、それに注目して関わり続けられればと心掛けるようにしている。歴史的に宗教的に地政学的に諸所の国際問題が同一であるなんていうことは決してあり得ないが、何か一つでも主体的に知っていることがあるのとないのとでは理解の深さが全く異なってくると思っている。それは私にとって、チベットが中国から受けている侵略問題・人権問題であり、2016年の熊本地震や2020年の球磨川水害だ。

3月10日、木曜日、アレグラ買い忘れた
「こんなに手に負えない問題を、さらーっと、
『平和な世界になりますように(ハトの絵文字)』
って書いちゃえる人、思ったより多いなと。」
と、友人は言う。彼女の意見はニュアンスを含めて概ね賛成できるもので、
『私はここまで考えましたので、あとは』
といった思考停止宣言のように見られてしまうのは本意じゃないということを言いたいのだと思う。
そういう理由から、戦争反対のスローガンやハッシュタグを掲げたり、アイコンを黄色と青にしてみたり、菜の花畑と青空の画像をリツイートしたり、私はそういうとっつきやすさとは一呼吸分の距離を置くことにしている。その中には上辺だけじゃない、大変な思慮深さだって多く含まれていることも重々承知しているけれど、アイコンとはそういった尊重されるべきものとお花畑とを一緒に溶かしてしまう酸性の強いものだ、という自意識のほうが勝る。

3月11日、金曜日、黙祷
アジカン後藤さんの言葉が胸に刺さる。

“「自分は無力だ」と嘆くのはナルシズムの一形態だと思い直す。手応えがなくても、目立つことがなくても、誰と比べるでもなく、自分の意志で自分にできることをする。意志表明は、それでこそなのではないか。”

ドサクサ日記 2/28-3/6 2022 Masafumi Gotoh

『平和な世界になりますように(ハトの絵文字)』を私が書こうとすると、1行で、あるいはアイコンひとつで済むはずの話がこんなにも長くなってしまって面倒くさくてみっともない。ナルシズムからくる自己補強かもしれない。自分の言葉は無力ではなく何か効力があると信じたいからなのかもしれない。
だけどそれでも、言葉を尽くして思いを遺すことを止めないでいたいし、それが「自分の意志で自分にできることをする」ことなのだと思う。ハトの絵文字もツートンのアイコンも、長ったらしい個人の文章も、みな同じように冷やかされたり揶揄されたりということがあったとて、意思表明はそれでこそだ。

3月15日、火曜日、三寒四温
惜しまれながら閉店したロシア料理レストランのキエフ風カツレツの写真を投稿のバナーに使いたかったのだけど、丁度よいものを見つけることができなかった。得意の面倒くささを封印し、仕方なく渾身のストレートを投げる。

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