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最後の消滅球団「近鉄バファローズ」の悲運とロマン 〜近鉄バファローズ55年史〜

プロ野球の前身となる職業野球が誕生したのは1936年。80年以上の歴史を持つプロ野球には現在12の球団が所属しています。
長い歴史の中で、経営状態の悪化などを理由として経営権の譲渡や売却をした球団は数多くありますが、中には譲渡すら叶わず消滅してしまった球団もわずかながら存在します。
この記事では、2022年時点で最後の消滅球団となった悲運の球団「近鉄バファローズ」(パリーグ所属)について、そのロマンあふれる激動の球団史について紹介したいと思います。

歴代最低勝率とシーズン100敗

大手関西私鉄の一つ近畿日本鉄道が球団経営に参画したのは1949年のことでした。誕生した球団の名は「近鉄パールス」、これが近鉄バファローズの歴史の始まりです。
創設期の近鉄球団は当時最弱と言っても差し支えないほどチーム成績が奮っておらず、1950〜1953年に4年連続最下位、1958〜1962年に5年連続最下位、1964〜1967年に再び4年連続最下位になってしまいました。また1950〜1968年まで19年連続Bクラス入りをしており、Bクラス入りの連続記録としては南海→ダイエーの20年連続に次ぐ歴代2位ワースト記録となっています。

1958年シーズンは130試合29勝97敗4分で勝率.238に終わり、これは1955年大洋(130試合31勝99敗)と並ぶプロ野球歴代最低シーズン勝率タイです。
また1961年シーズンは140試合36勝103敗1分勝率.261でした。シーズン103敗という記録はシーズン敗戦数の歴代最多記録であり、100敗以上した球団は現時点で1961年近鉄のみとなっています。

猛牛マークと岡本太郎

岡本太郎氏がデザインした近鉄バファローズの猛牛マーク
(Wikipediaより引用)

1959年シーズンから監督として指揮を取ることになったのは、現役時代に「猛牛」の異名で呼ばれた千葉茂氏でした。千葉監督の就任に伴い、「猛牛」の英訳語にちなんで球団名を「近鉄バファロー」へと改称しました(1962年に千葉監督が退任した際に、球団名の末尾に複数形の「ズ (-s)」がついて近鉄バファローズへと改称します)。
千葉監督は近鉄球団のシンボルマークの作成を芸術家・岡本太郎氏に依頼します。岡本氏はのちに大阪万博(1970)の太陽の塔や東京五輪(1964)のメダルデザインなどを担当しています。岡本氏が近鉄のために制作したマークが上図の通称・猛牛マークです。
おしゃれで芸術性の高い猛牛マークは広く親しまれ、103敗を喫して最下位になった1961年でも野球帽の売上は当時の常勝球団・巨人に次いで2位となる人気ぶりを博しました。

猛牛マークの製作者岡本太郎氏が制作した「太陽の塔」

ちなみに、1997年から球団消滅までマスコットキャラクターとして使用されたバフィリードは、トムとジェリーを制作したハンナ・バーベラ・プロダクションがデザインしています。

トムとジェリーの制作プロダクションが手がけた近鉄のマスコットキャラ

初のリーグ優勝と「江夏の21球」

万年Bクラスと揶揄された近鉄は1979年に念願の初リーグ優勝を果たします。これにより当時存在した12球団が全て優勝を経験したことになりました。この優勝について、当時のパリーグは前期後期制に別れていた関係上、1度も年間勝率1位を通過せずに優勝した最初で最後の球団になっています。
満を持して迎えた日本シリーズの対戦相手は広島。先に4勝したチームが日本一となる日本シリーズにおいて、広島と近鉄は互いに3勝3敗のまま第7戦を迎えます。
近鉄後攻の日本シリーズ第7戦は9回裏開始時点で、広島4-近鉄3となっていました。広島側からすれば1点でも取られると延長戦突入の場面で、広島・江夏豊投手は安打・盗塁・敬遠によって無死満塁の大ピンチを招いてしまいます。しかし、その後の好投で後続打者と走者を全員アウトに抑えたことにより広島はこの回1点も与えることなく勝利。広島に日本シリーズを制された近鉄は日本一を達成することができませんでした。この名勝負は江夏投手の投球数にちなみ「江夏の21球」として現在でも語り継がれています。

「江夏の21球」。抑え込まれた近鉄側の視点から語られることは少ない。

「10.19」と2年越しの優勝

1988年シーズン、仰木彬監督率いる近鉄は9月15日時点で首位西武と6ゲーム差の2位でした。その後快勝を重ねた近鉄は、10月16日で全日程を終了した首位西武に対し、その時点で近鉄が残していた対ロッテ3連戦(@川崎球場)を全て勝利した場合のみ優勝決定という状況になりました。
10月18日の試合は近鉄12-2ロッテで快勝。残すは10月19日に行われるダブルヘッダーを連勝するのみとなりました。

10月19日。ダブルヘッダー1戦目は後攻ロッテの初回裏2点リードで幕を開けます。5回表に近鉄がソロ本塁打で1点を返して近鉄1-2ロッテと差を縮めるも、7回裏のロッテ側二塁打により近鉄1-3ロッテの2点ビハインド。8回表に近鉄側代打のタイムリーで近鉄3-3ロッテと並びました。9回表でこの年現役引退を決めていた梨田昌孝捕手が代打として打席に立ち牛島和彦投手からセンター前ヒットを放ちます。二塁走者の鈴木貴久氏は三塁を回ってホームベースへ滑り込み近鉄4-3ロッテの勝ち越し点となりました。9回裏を守り抜いた近鉄は1戦目を勝利し、2戦目を勝利すれば優勝という状況に持ち込みます。

ダブルヘッダー2戦目。後攻ロッテ側が2回裏に1点先制。6回表に近鉄が1点を返して近鉄1-1ロッテの同点、7回表の近鉄側ソロ本塁打2発と7回裏のロッテ側本塁打&タイムリーで近鉄3-3ロッテの同点、8回表の近鉄側ソロ本塁打と8回裏のロッテ側ソロ本塁打で近鉄4-4ロッテの同点となり熾烈なシーソーゲームを繰り広げますが、試合時間の関係上10回打ち切りとなることが決まります。同点のまま迎えた10回表、近鉄側は出塁するも最後はゲッツーでスリーアウトとなり攻撃が終了します。2戦目の勝利が消滅した近鉄は、この時点で西武とゲーム差0の勝率差で優勝消滅が確定します。それでも守備に立たなくてはいけない近鉄ナインは最も残酷な10回裏の守りにつき、この試合は同点引き分けで終了します。

本来放送予定の無かったこのダブルヘッダーは大きな反響を呼び急遽中継が開始、関西地区では視聴率46.7%を記録しました。祈りながら優勝を待っていた西武側の選手にも衝撃や感銘を与え、最終的に日本シリーズを制して日本一になった西武の清原和博選手は「これで近鉄に顔向けができる」とコメントしています。2010年に行われた、監督・コーチが選ぶ「最高の試合」ランキングで2位に選ばれたこのダブルヘッダーは、試合日にちなんだ「10.19」の名称で多くの野球ファンの心に刻み続けられています。

「10.19」の試合で感動を与えた近鉄戦士たちには、球場にいたファンから「ありがとう」「よくやった」などの温かい言葉がかけられた。

「10.19」の翌1989年、近鉄はリーグ優勝を達成2年越しでの仰木監督の胴上げの夢がそこに叶いました。

昭和から平成へとまたぐ2年越しの優勝を決めた近鉄戦士たち。

メジャーリーグ挑戦へのパイオニア・野茂英雄

現在、日本のプロ野球で輝かしい活躍をした多くの選手が、さらなる高みを目指してメジャーリーグに挑戦しています。メジャー挑戦の先駆者とも言える存在・野茂英雄氏は、かつて近鉄バファローズの投手でした。

1989年のドラフト会議で8球団競合の末に近鉄が獲得した野茂投手。特徴的なピッチングフォームは「トルネード投法」と呼ばれました。平成初の投手三冠王、パリーグ記録タイとなる最多勝利4回を達成した野茂投手は、大リーグのドジャースへ移籍します。

野茂投手のトルネード投法は体を大きくひねって投げるのが特徴。

メジャーでノーノー2回・最多奪三振2回・新人王受賞などの活躍を見せ社会現象ともなった野茂英雄氏は、その後の日本人選手のメジャー挑戦へ大きく門戸を開くきっかけとなったのでした。

代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームランと最後の優勝

2001年9月18日、ダイエー・西武・オリックスとの熾烈な首位争いを抜け出し単独1位となった近鉄はマジック6が点灯します。その後も快勝を重ねた近鉄は、9月24日の対西武戦で中村紀洋選手が放った逆転サヨナラ2ラン本塁打によってマジックを1に減らし、次の試合である9月26日の対オリックス戦に勝利すれば本拠地大阪ドームで優勝する状況となりました。

9月26日。後攻近鉄が1回裏で1点先制するも、オリックスが4回表に3点、5回表に1点を決め、オリックス4-1近鉄の状況に。7回裏で近鉄が1点を返しますが、9回表にオリックスも1点を追加。オリックス5-2近鉄の3点ビハインドで9回裏を迎えます。
9回裏の最初の打席は6番吉岡雄二選手でした。吉岡選手はレフト前ヒットで一塁に出塁。続く7番川口憲二選手は二塁打を放ち無死二三塁。次に打席に立った代打益田大介選手は四球で一塁出塁。この時点で無死満塁の状況であり、走者全員と打者をホームベースへ返すことが出来れば逆転勝利による優勝が可能な場面となりました。
益田選手に次いで打席に立ったのは北川博敏選手でした。北川選手は前年まで阪神に所属していたものの阪神時代はホームランを1本も打つことが出来ず、トレードによってこのシーズンから近鉄の選手になっていました。1球目はストライク、2球目はファウル、3球目はボール。4球目、大きく振りかぶった北川選手がスライダーボールをバットで捉えます。バットで弾き返した打球はスクリーン左横のレフトスタンド下段席に飛び込む満塁サヨナラホームラン。これによってオリックス5-6近鉄の逆転勝利となります。このサヨナラ本塁打により近鉄は1989年以来12年ぶりの優勝が決定。プロ野球史上唯一の代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームランというドラマチックなホームランになりました。

北川選手が放った代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打は、
MLB・NPBにおいてこの試合が唯一である。

この優勝劇は、2010年に行われた「名勝負・名試合」ランキングで2位に選ばれ、本塁打を放った北川選手のみならず、代打に出された古久保健二選手や、打たれた大久保勝信投手もこの場面に1票を入れました。

この優勝で胴上げ監督となった梨田昌孝監督。そして梨田監督の胴上げを見守ることになったオリックスの仰木彬監督。かつて仰木監督は近鉄監督として、そして梨田監督は近鉄選手として、かの熱戦「10.19」を戦っています。

2004年に近鉄球団は消滅する為、この劇的な優勝劇が近鉄バファローズにとって最後のリーグ優勝となりました。

球団消滅と「近鉄バファローズの永久欠番」

2004年6月、近鉄バファローズはオリックスへの吸収が発表されます。この発表は近鉄球団の事実上の消滅を意味し、これを受けて近鉄選手や近鉄ファンのみならず、他11球団の選手とファンも団結して反対運動を行いました。
2試合中止となるストライキを行うも、最終的には近鉄の吸収を阻止することは叶わず、球団の消滅が決定します。
9月24日にホーム最終戦(対西武戦)が行われました。梨田監督が見守るなか完全ノーサインで行われたこの試合。延長11回裏で星野おさむ選手がサヨナラヒットを放ち、近鉄3-2西武で勝利します。

最終ホーム戦に勝利した近鉄戦士。

この試合の開始前、ホーム最終戦に臨む近鉄選手に対し梨田監督はこのような言葉をかけて励ましました。

みんな、胸を張ってプレーしろ。おまえたちがつけている背番号は、すべて近鉄バファローズの永久欠番

おわりに

歴代最多敗戦や歴代最低勝率を記録したり決して強いとは言い切れなかった近鉄バファローズ。しかしその近鉄球団が、「10.19」や代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームランなど数多くのドラマを野球ファンに見せてくれたのも、また事実でした。
最後まで日本一にはなれなかった近鉄球団が残した悲運とロマンあふれる名場面の数々が、プロ野球ファンの心のどこかでいつまでも残り続けてほしいですね。

追記 (2022.11.01)

2022年10月30日、近鉄球団から「バファローズ」の愛称を継いだオリックス・バファローズが2022年の日本シリーズを制し、日本一に輝きました。
2004年の近鉄消滅などの影響からオリックス球団に対しては近鉄ファンの中でも様々な思いや意見があるかとは思います。
私個人の感想になるのですが、バファローズにとって史上初の日本一を、一人の野球ファンとして嬉しく感じました。