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まぶたに焼き付いた男の背中…。

僕が40歳ぐらいの時の話、ひと昔以上前の話だ。
目を奪われんばかりの新緑の中に、ひっそりとたたずむ古びた温泉宿が熊本の片田舎にある。
鳥はさえずり、小川のせせらぎも聞こえる。
まさに別世界、僕の隠れ家の一つである。
温泉の質も良く、湯治に来る人も多い。

約半年振りに、時間の合間を縫って訪ねてみる事にした。
打たせ湯にのんびりと浸かり、息吹を肌で感じ、脱衣所で一服していた。
そこに60歳位のおじさんと、小柄でお年を召した長老が入ってきた。
そのおじさんと、二言、三言、軽く挨拶した。

目の前を通られた長老にも「こんにちは…」とお声掛けした。
「……………。」無言だった。
即座に「九十過ぎて耳も遠かけん、挨拶もせんですみません…。」と、優しいおじさんの声だ。
そのとき始めて、二人が親子であるだろうと感じた。
正直いってその長老は、皮膚が荒れていて、目をそむけたくなった。

僕も、もう一風呂浴びよう…と浴槽のドアを開けた。
私の目に飛び込んで来たのは、人生を生き抜いた男の背中。
長老の黒ずんで曲がった背中を洗っているおじさんの姿だった。

何気ない素振りで浴槽に浸かったが、その二人のことが気になってしょうがなかった。
さりげなく景色を眺める感じで目を向けたら、無表情の長老の背中を黙々と流した後、頭を洗い、そしてタオルで優しく拭きあげられている光景だった。

その二人にしてみれば当たり前のことかもしれないが、僕にとっては、衝撃的な出来事であった。

新緑に目を移したものの、頭の中はその事でいっぱいになり、心の整理をするのに時間を要した。僕の心は、「凄いな~」から、「果たして僕にそんな事が出来るだろうか…?」という思いへと変わっていった。

二人の男の背中に、その人生の縮図がいっぱい入っているような気がしてならなかった。 
大自然の癒しと、心の癒しが交じり合ったような、味わい深いひとときであった。

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