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🎀お嬢ちゃまのこと

※ほぼ己のメモ、走り書きですので、かなり読み苦しいです。
すべて「ニンゲンにはこう見える、実際の本人たちはそうじゃないかも」という前提のもと、1つの可能性。


お嬢ちゃまには「人生」を感じる。
(人ではないので「人生」という表現は最適ではないだろうが)

他のいのちちゃん達は、所謂「ぬいちゃん」らしい子たちが多く、平和でやさしい世界に生きている(ようにニンゲンは感じる)。

でもお嬢ちゃまたちはそうではない。
人間のような経験をし、人間のように苦しい思いをし、人間のように喜んだり絶望したり悩んだり、知らないふりをしたりしている(ようにニンゲンには見える)。

だから、お嬢ちゃまのことを考えると苦しくなるし、泣きたくなるし、幸せそうなお嬢ちゃまを見ると涙がでるほど嬉しくなる。

本当に「少女」であるように感じる。
感情移入。

お嬢ちゃまたちの関係性や歩んできた(歩む)歴史に、ひとつの「人生」の解、救い、願望を見出しているのかもしれない。

それぞれふたりは出会い、互いの人生が交わったけれども、きっと出会わずに別の人生を歩む可能性もあっただろう。

出会った場合と出会わなかった場合、どの場合もぼやけることなく「確実に歩む(べき)人生がそこにあった」と感じる。

どちらの方が幸せだったのか。
考えても答えはでないのだが、どうしても考えを巡らせてしまう。

以前話した気がするが、
ひふみんちゃんは、独歩ちゃんと出会わなければ幸せにはなれないだろう。
独歩ちゃんは、ひふみんちゃんと出会わなくても幸せになれただろう。

独歩ちゃんは家庭もあたたかく、生活に不自由なく、壁にふさがれることはあっても、順調に十分に穏やかな、幸せな人生を歩めたはずだ。
独歩ちゃんは、この世に「無償の愛」があることを知っているのだ。

対して、ひふみんちゃんはどうだろうか。
ひふみんちゃんの人生は「苗床」だ。

周りの、自分より大きいものたちの養分にされている。

可憐な少女を贄に、悪魔のような大人たちは煌びやかで麗しい(と本人たちは思っている)生活を送るのだ。

ひふみんちゃんにとって、苗床であることは生きる術。
これが人生なのだ、こういうものなのだ。

「うまく生きる」ためには、己の存在価値を示すことが必要である。
これが彼女の人生観。
そしてその存在価値は「苗床」であること。

どんな場所にも、どんな空気にも、どんなやつらにも、「こうであれ」と望まれる姿をみせることができる。

そうして価値を示し、価値として利用されることが、彼女が「幸せな人生」をおくるための術なのだ。

しかし、まだ少女。

随分と大人びた、甘えの無い、打算的で利発な彼女の唯一の弱みは、少女であること。

少女であるが故、利用され価値がうまれる。
少女であるが故、御しきれず闇がうまれる。

利発な彼女は気づいている。
少女になる前には気づかずに済んだことに、気づいている。

私は苗床であるために生まれてきたのか?
少なくとも、己の幸せは苗床になることではない。
しかし今は、生きるために苗床であらねばならない。

いったい何が「幸せ」なのか。
「幸せ」とはどんなものなのか。

幸せ以外のことは、なんだって知っているはずなのに。
しかしどれだけ様々なものを見聞きしても、幸せの色も形も、香りも感触も、何ひとつ知識を得られなかった。

可憐な少女が見ている世界に、あたたかで美しいものなど1つもない。
「無償の愛」など、存在しないのだ。
(本当に幸せになるためには、無償の愛を「実感」する必要があるのではないか。)

だがこれは、ひふみんちゃんには分からない。
まだ分からない。幼気なのだ。

この「無償の愛」を知るために(幸せになるために)、ひふみんちゃんには独歩ちゃんが必要なのだ。だから、出会わなければならないのだ。

独歩ちゃんを知ったひふみんちゃんは、独歩ちゃんのことをどう思うのだろうか。希望も絶望も、ここにつまっている。

無償の愛と利用価値。
希望と絶望。
無条件と条件。
光と影。(※)
唯一と代替。

(※ ”ひふみんちゃんの人生”という視点において、対比としてこのように表している。”独歩ちゃんにとっては、ひふみんちゃんが世界の光である”部分もあるため、固定的にこうというわけではない。)

相反するが、しかし、表裏一体であるお嬢ちゃま。
どっちかひとつじゃだめみたい。




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