オンライン版 コメント集
私たちの社会の無意識、つまりは私たちの無意識に、あろうことかその核を成しているもの自体(超自我?)が働きかけ(呼びかけ、挑発し)てくる。「脳内(の小人さんたちが使嗾する)革命」。それで、この劇が上演されている間、私は私との闘争を否応なく迫られるのだが、果たしてどちらの私が勝つか? すなわち革命は成就するのか、封圧されるのか? 来るべき「ニューノーマル」を占う、まことにコロナ下に相応しい劇体験と言うべきだろう。
桜井圭介
いくつかの地点の公演を拝見していて、私はその空間の中で適用されるルールの中で情報処理を楽しむのが魅力だと思っている。閉じ込められていない空間であの独特の集中をどう表現するのかが気になっていたが、映像の演出によって普段自分自身が持たない視点と文字が与えられ、別な集中を生んでいた。俳優から発せられるものを楽しみながら文字で入ってくる理解が新鮮で、余計に音のやりとりが際立つ。それは多分、英語の勉強のために字幕付きで見ながら英語自体を頭で復唱しているような感覚にも似ている。その行為をして頭に残るのは、一年前には予想してなかった2020年を生きた人が、平和ボケだろうが狂ったネオリベだろうが一度は突きつけられていること。入口は近かったはずなのに出口が大きくずれてしまうような危うい時代、より多くの人の目に映ればいいなと思います。
Licaxxx
「御言葉」を聞くのか? 発するのか? 作るのか?――「天皇制」という、それ自体あまりに象徴めく言葉の(あるいはその使用法の歴史の)周囲を編成し形作られた本作は、天皇制そのものに対してはもちろん、「戯曲」というテクストの、あるいはそれを端緒/素材/可能性/拘束として用い為される「演劇」という営みの、「切実かつ滑稽かつ痛烈」なパロディであり、命懸けのでっちあげでもある。
役者らの声は沖縄東北関西など様々な日本の(?)方言を、英語を、接続詞や代名詞や副詞や語尾や抑揚を(ほとんど音韻・韻律こそが言葉の意味より遥かに強い必然であるかのようなリズミカルさで)混線させていく。同時にこのオンライン版の場合、観客の目には、声の元となっただろう戯曲の一節が、たびたび字幕として簡明に示されてしまう。また声そのものに関しても、いまカメラのフレームに写り込んでいる役者の口元から発されたものなのか、事前収録され撮影現場のスピーカーから鳴らされたものなのか、撮影後に新たにデータとして加えられたものなのか確定せず、しかし一方で画面上に動く役者のこの肉体、その視覚像はどうにも避けがたく確からしい。音の抱える不明さと、それに比して疑い得ない視覚の自明さ(文字、肉体、ひな壇、中継VTR、誇張された身振り、etc.)のあいだで――あるいは逆に、溢れ返る言葉や音が醸すイメージとそれに比して具体性に乏しい舞台上の視覚的イメージのあいだで――〈今見聞きしたのは誰による何に向けた表現か?〉という問いが、あちこち投げ渡されては宿りと霧散を繰り返し、多重化し、強烈な違和感とともに自他や主客や因果を横転させ、奇妙な滑稽さを交えて(ボボボボン)反響し続ける。
それは「天皇制」と呼ばれる何かを、「戯曲」や「演劇」とともに、重たく遠い、触れることすら思いつけない誰かの「庭」に投棄したままにするのではなく、まずこの身と声と思考から順を追って問うていくためのレッスンとしてあるだろう。少なくとも役者らの声や肉体は、その実行に触れるものとして、強いられ、緊張している。そしてそれに立ち会い「拝聴」する観客が摑まされるのは、他でもない観客自身がそれぞれの場所で、それぞれの電子機器に照らされながら――なにに感染したのか知らないが――ぼんやりした顔で気づかぬままに演じているところの、役柄、亡霊、運命……それらの極めて凡庸な形態であり、標本であり、その運用可能性への破壊的な祈りだ。
「単一の起源をもつ必然の王国では終わりは目に見えている。だからわたしは始まりを求めた。始まりさえすればそこには自ずと意味が生まれてくる。」
山本浩貴(いぬのせなか座)
新型コロナウイルスの脅威は、あらゆる舞台芸術をかつて直面したことのない危機に陥れた。
いまだ出口は見えない。出口があるのかどうかもわからない。
だが、はからずもこの事態は、身体の現前を大前提とする演劇という形式にコペルニクス的転回を及ぼした。
インターネットを介した「オンライン演劇」の登場である。
すでにさまざまな試みがなされているが、正直言って、地点がこの流れに加わるとは考えてもみなかった。
だってそうだろう? 地点こそは俳優たちの身体の存在、その駆動を核とする劇団であるからだ。
ところが、このオンライン版『君の庭』は、まさに地点にしか出来ないユニーク極まる「映像による上演」になっている。
劇場公演の記録でもなく、単純な映像作品というわけでもない、奇怪にして魅惑的なイメージの交錯。
ここで地点の俳優たちは「映像的身体」とでも呼ぶしかない異様な姿を晒している。
興味深いのは、松原俊太郎の戯曲の言語との距離感が、生の上演とはまた異なる角度を示していることだ。
この「オンライン版」は「上演版」と完全に対等の強度を帯びた、もうひとつの『君の庭』である。
佐々木敦
息苦しい。呼吸ができない。この国に蔓延する「空気」は、疫病流行よりもずっと前から、そこかしこに飛散し、人々の内面を侵食している。その空気はより不可視の集合的権力を帯び、誰かの自由を奪い、その声を抹殺する。一方的な正しさや道徳、倫理観は、完璧な相互監視を実現する。コロナ禍はその「空気」の圧を強めた。
地点の舞台を一度も見たことのない人に向けてリコメンドを書くということは難しいのだけれど、見ることも触ることもできないこの国の「空気」の正体を、滑稽なまでに執拗に、馬鹿馬鹿しいまでに崇高に表出させるのが、地点だと思う。松原俊太郎の戯曲もまた大文字の政治や歴史をえぐればえぐるほど、消し難く不謹慎な匂いが漂ってくる。そんな矛盾したものを引き受けられるのは、地点の俳優たちが体現する声であり、語りだ。祝詞、唱和、黙祷、禊(みそぎ)など、日本の儀礼的な語りや発声を、大真面目かつ不謹慎にずらしていく技法は徹底して音楽的で、聞いているだけで愉快だ。そして私はそれを、これこそ滑稽な喜劇として、ニヤニヤしながら見たい。この滑稽さを笑える不謹慎さこそが、今日の日本ないしはその縮小版たる観客席には必要なのではないか。オンライン版は、その予習としてぴったりだと思う。
相馬千秋
これまで舞台でなくてはほとんど観ることができなかった劇団・地点の劇が、期間限定だけど何処にいても映像でオンラインで観られる事になった。これは映像なのか? 映画なのか? ミュージックビデオなのか? という問いより、この映像はやはり地点だ。セットの雛壇が延々と回転するのを観て想起したのは劇団・天井桟敷の寺山修司が撮った映画『田園に死す』の雛壇の最も映画からも演劇からも遠いカットだった。70年代後半の寺山がバッキバキだったように現在の地点はバッキバキだ。バッキバキでキレッキレの地点があるということは、創作の領域の、表現の領域の、多様性が未だ豊かで死んでいないということだ。そして今回の地点の新作「君の庭」はバッキバキでキレッキレにポップだ。この地点を見逃さず、心地良い蹴鞠のごとくに虚空に転がる言葉の歌を楽しんで聴いて欲しい。観た後は必ず歌が頭に宿り一人の虚空に向けて喉からボンボンボンと蹴鞠の唾を焼かないではいられないくらい心地いいよ! その蹴鞠は実は人の頭だったりするくらい怖い言葉が重さを解き放たれて飛び交うよ! これぞポップ。
鈴木卓爾
『君の庭』は、見ていて非常に居心地の悪い演劇だ。より正確には「上手く笑えない」ということなのかもしれない。私の見た地点の演劇では常に、自ずと笑わざるを得ないような「その人が、より過激にその人であることによるユーモア」があった。ただ、今回の録音された台詞とライブの声音の同居とズレは、むしろいつも以上に過激で、ユーモラスでもある。認めざるを得ない。これは題材によるものだ。「天皇」とか「皇室」とか「象徴」とか言われると、笑えない。あまりに直截な言葉選びと、それをはぐらかす方言の絶妙なバランスによって、私たちは見難きものを見ることになる。私たちが「責任」というものをゴミのように投げ込むための空虚を見せつけられる。だからこそ『君の庭』は今、誰もが見るべき演劇にもなる。個人的にはやはり「録音(過去)」と「生(現在)」の拮抗がまざまざと感じられるオフライン版を強く推したい。
濱口竜介
『君の庭』を観て心底驚いた。戦後75年も経って、誰も正面から問えなくなったまま風化しかけている問題を中心に据え、そのど真ん中の空虚を撃ちぬいているからだ。大胆かつ緻密に現代に切り結ぶ松原俊太郎のテクストを土台にして三浦基の「地点語」はますます冴え、言葉は異様なイントネーションと不可解な歪曲を通じて酷使され、破裂寸前のところで緊迫感を獲得する。雨あられのように降り注ぐ「ボンジン(凡人)」という単語は、「ニッポンジン」にも通じ、戯曲は「君の庭」という象徴的な中心だけでなく、それを取りまく現代の日本全体を射程に入れることになる。演劇にこのようなことができるとは、想像したこともなかった。
沼野充義
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