【小説】Empty colors
「海が好きだね」
と、ある男は言った。泳ぐのは苦手だけど、海が好きだ。水族館とか。海鮮物は、食べるのも好き。彼は見かけによらず幼い笑顔でそう言った。同い年とは思えないほど大人で仕事ができて優しい彼が、私は好きだった。人当たりが良くて爽やかな気性のその男は、私を初めて見つけ出してくれた人だった。休日の晴れた日には、二人でよく出かけた。初めて行ったデートは、鎌倉の江ノ島水族館だった。なんともひねりのない、あまりにも凡庸で普通のデートだ。私はとても幸せだった。クラゲがふわふわと水の中を浮遊していて、自由なのか不自由なのかわからないその生命体を見つめながらふと、彼の瞳に映っているものと同じものを見ている。その事実に胸が弾んで、それでいてとても穏やかな気分になった。幸せだった。
爪を青くした。マニキュアで自ら塗った。深海の孤独、と銘打ったその商品に何となく手を伸ばして、何となくレジへ持っていき、気が付けば購入していた。深海の孤独色に染められた私の指先は、深い海の色をしていた。光の加減で時折きらりとラメが輝く。水底から見上げる水面か、もしくはその逆のようにも思える色合い。水面から遥か下の深海をのぞき込むと、こんな風に時折きらりと輝くのだろうか。
澄んだ青よりも、私は仄暗い深い青を好む。彼が好きだった海を、その情景を彷彿とさせるから。彼が好きなものを好きでいられる自分が好きだった。それが人を愛することなのだと信じていた。だから私は、これからも青を好む。もう隣にいない彼を、想い続ける証として。彼の好きだった色を好きな私でいる。そう思っていた。
「それは、良い人間関係の例ではないね」
私にそう諭したのは、緑を好む男だった。彼の生まれ育った土地は緑が多く、こんな都会の数少ない緑を探しては写真に収める男だった。緑は癒されるでしょう、その男はそう言っていたけど、彼の撮る写真はどれもこれも寂しい色をしていた。私よりずいぶん年上の、シルバーグレーの髪の毛をワックスで遊ばせているような男だった。あなたは多くの女性を泣かせてきたのですね、私がそう指摘すると、彼は不本意そうに笑った。女性が勝手に泣くのだもの、それが彼の言い分だった。僕は女性の愛し方がわからないんだよ、でも僕から言わせてもらうと、女性も僕という人間の愛し方をわかってくれないね。僕はね、寂しいんだよ。とてもとても、そう、寂しいんだよ。私は彼の寂しさに寄り添ってあげたかった。その役目は私に与えられた使命なのだと、勝手に思い込んだ。そうして救われたのは、彼ではなくて、私だった。
太陽が緑の隙間を通って作り出す、あのトンネルを、よく歩くようになった。一人で。彼は一緒に歩いてくれるような男ではなかった。寂しさを知った。彼の好意は多数の女性への平等なそれであって、とても紳士的で、とても悪い男だった。私一人に与えられていると勘違いしていたあの役目を、その場所を、望む女はたくさんいた。たくさん。彼は寂しい人だったから。女は寂しさに群がるのだ。私はそのたったひとつのことを学ぶために、たったひとつの恋を棒に振った。
寂しさに引き寄せられた女は寂しい男から寂しさしか与えられないのだ。私はその虚しさが嫌になって、自分から彼の元を離れた。寒い冬の夜のことだった。彼の部屋から着の身着のまま、手元にあった薄手のカーディガンだけを羽織って外に出ていた。彼の部屋に置いてきた私物は、他の女の私物と一緒くたになって私を見送った。さようなら、と呟いた声は、キンと冷えた空気に白く溶けた。
「辛かったね」
春がやってきた。桜とすみれとたんぽぽと、花々が嬉々として咲き誇り私を迎え入れた。浮かれた。寒い寒い季節を一人で越えた先に、その男は待っていた。医者だった。大きな大学病院の脳外科医で、彼と過ごせる時間は限られていた。病院での勤務が終わった後の彼は消毒液の匂いがして、とても清潔感があり、そのイメージ通り几帳面な性格だ。私が部屋を開ければ勝手に家事をしてくれる家庭的な男だ。細長くて美しい指をしていた。彼といると、私は安らいだ。大きな腕に静かに沈んでいくような、そんな感覚だ。とても静かで愛おしい、時間だった。ホテルに入ってネクタイを緩める彼を、とても愛おしく思った。ベッドの上で眼鏡を外すと男の顔になる、その瞬間が堪らなく好きだった。浮かれていた。汚れひとつない彼に対して、私は甘えきった。彼がいなければ呼吸すらまともにできないほどに彼に溺れていたのだ、きっと。私にとっての世界は彼がすべてになってしまっていた。ねえ疲れたんだ、今日はとても難しい手術があって。そんな言葉を言われたら、私は彼の肩にそっと手を置いてマッサージをしてあげたし、お腹がすいた、と言えば腕によりをかけてごちそうを作って振る舞ったし、彼が駄目と言えば私は黙り、彼が良いと言えば私も賛同した。
私はまた、勘違いしていた。彼のすべてを知っているのは自分だけだと。
ある日、彼の細長い指を見つめていて気付いた。左手の薬指に残る、跡。
何も疑っていなかった。彼が決して自宅に私を上がらせないことも、しわひとつない彼の白衣やシャツも、暇だろうに絶対に会ってはくれない非番の日も、時たま携帯電話を持っていなくなる時間も。彼に帰るべき場所があるなんてことを、私以外の大切な存在があるということを、考えたこともなかった。辛かったね、そう言って差し伸べてくれた手に、何の疑いもなく私は縋ってしまった。悔しくて、悲しくて、愛おしくて、泣いた。汚れひとつない彼の大きな、大きすぎる嘘。彼を問い詰めると、大の男は情けなく私に懇願した。僕には立場があるんだ、こんなことが妻や職場にばれてしまったらとんでもないことになる、後生だから黙っていてくれないか。金ならいくらでもやるよ。
自分の中で、何かが音を立てて遠ざかった。白波がざざあ、と引いていくような音だった。私は男を嘘まみれの美しい浜辺に残したまま、彼の元から静かに立ち去った。
「面倒くさいね」
煙草の煙を吐きながら、男は億劫そうにそう呟いた。誰かに期待するからそんな痛い目見るんだよ。言っておくけど、僕にはそんな面倒くさいことを押し付けないでね。僕は君には応えられないよ。男は人差し指と中指に挟んだ煙草を、ベッドサイドの黒い陶器の灰皿に押し付けた。優しい嘘を吐く男より、その嘘に期待を持たせて裏切る男より、裏切りを尻拭いしようとする男より、よっぽど正しい人間の姿に見えた。
その男は煙草を好んだ。黒地の箱にラクダの描かれたパッケージで、コンビニでは滅多に売っていないらしく、街中にぽつんとある小さな煙草屋でカートン買いをしているらしい。煙草を吸わない私は銘柄すら良くわからないが、彼が煙草を摂取する姿は好きだなと思った。何物にも捕らわれない、ゆらゆらとけむる煙のように、彼は自由だった。フリーで楽曲を提供する仕事をしていた。凡庸な会社員である私とは全く異なる生き方をしていた。自らの生活を、時間を、誰からも管理されず自分で支配する。自由で自立した男だった。
男の生活リズムは時間配分こそばらばらだったが、朝起きれば必ずコーヒーメーカーで入れたコーヒーをブラックで一杯飲む。そして煙草を一服して、顔を洗って着替えて、もう一服してから彼の一日は始まる。昼の行動は日によって違っていて、一日中部屋に籠って仕事するときもあれば友達と遊び歩くこともある。時にはレコーディングでスタジオに赴いて、帰りに仕事の関係者と飲みに行く。そして帰ってくるとまずシャワーを浴びて、トニックウォーターをコップ一杯注ぎ、ベランダで一服する。そのあと歯磨きをしてドライヤーで髪の毛を乾かし、ベッドに入る前に最後の一服をして、一度メールを確認してからベッドに入る。私は毎日ではなかったが、それなりに彼の生活に寄り添いながら過ごしていたように思う。
彼にシルバーのネックレスをあげたことがある。シンプルなチェーンにオニキスの一つ石。彼はそれを受け取って、つけないけどね、ありがとう、と言った。僕は自分の身に着けるものは自分で選ぶから。石ってひとつだけで存在感が有り過ぎるし、服によっては悪目立ちするよ。まあ早い話、これは僕が気に入るデザインではないね。なんとも冷たい言い方だったが、私はこんなものを選んだ自分を恥じた。というより、プレゼントなんてものを押し付ける自らの行動を恥じた。結局私はまた、期待していたのだ。プレゼントを贈って喜んでくれる彼を想像して私は自己満足に浸っていた。彼は縛られることができない、たったひとりで生きているような人なのだ。それだけの強さを持っていた。彼の部屋はおびただしい数のレコードやCDが山積みにされていて、常備してあるコーヒーは必ず決まったメーカーのもので、水道水は口にせず、煙草も必ず同じ銘柄。彼を構成するものは全て彼が好きなものであり、それを選別しているのは彼自身であり、彼は好き嫌いが非常にはっきりしていた。何かに依存することはしないのだ。
彼の指に挟まれた煙草がじりじりと燃えて、消える。彼にはこの煙があればそれで充分なのだ。私が入り込む隙など、微塵もなかった。こんなに不確かな煙の中にさえ。
「なんだかもう、いいわ、どうでも」
私は嘯く。一人になった体で、暗く広く深い夜空に嘯く。もう何も期待しない。私の言葉は私だけのものだけど、言葉にするまでにずいぶんと時間を要した。
私はひとりで生きていく。
男に染まるのはもう飽きた。もう、疲れた。私には私の色があるでしょう、そう自分に言い聞かせてみたら、嘘のように楽になった。嘘なのだろうけど。
私は一人で生きていく。
誰かを愛することも期待することも忘れて、自分だけを頼りに生きて行こうと思った。夜空になら嘘を誓ったって罰は当たらないだろう、そんな祈りを込めた言葉を、月だけが照らしていた。