【小説】砂の上の心臓

 さらさら、さらさら。何かが少しずつ崩れていく。それは外側からは見えなくて、内側からさえも捉えにくいから厄介だ。まるで自分という存在を支えていた土台が、乾いて、ゆっくりと、誰にも気づかれないほどゆっくりと、さらさら、さらさら。離散していく。それを必死にかき集めなければならない気もするし、だけど全て流されてしまえばいいとも思う。
 彼女はふとした瞬間、この感覚を覚える。いつ、どこで、何をしている時に、というような明確な定義はない。日常の中でそれは無差別に起こる。
 初めて感じたのは何時だったか。彼女は記憶を手繰る。しかし、もうこの感覚とは長い付き合いになるので、はっきりとした時期は思い出せない。ただ彼女は物心がついた頃には、すでにこの感覚を自覚していた。

 この日の深夜、彼女は最寄り駅から自宅へ帰るため、珍しくバスに乗ることになった。バスや電車といった公共の乗り物は、彼女の意に沿えるものではない。たくさんの他人という他人を乗せた巨大な箱に、自分までもが一緒くたになって運ばれていくのだ。冗談じゃない。息が詰まってイライラする。ただ、今日に限って手持ちの金がなかった。財布の中身は百円玉が三枚と、それより細かい硬貨がいくつかあるのみ。ああチクショウ、さっき遊びすぎたんだ。成人したオトナの財布かよこれ。カッコ悪い。どこに当たれば良いのか知れない悪態を心中で吐きながら、彼女はバス停へ向かう。タクシーを捕まえようにも、この残金ではどうにもならない。わざわざ金を引き出しにまで行くのは気が進まない。なんだか悔しい。自分の思い通りにならない自分の金に、酷い気だるさと自己嫌悪が沸き起こる。こんな些細なことで、彼女の頭の中にはたくさんの情報が溢れ出し、出口を探してぐるぐると廻る。彼女は常々、自分の思考とはなんとも面倒くさい、と感じていた。
 彼女がバス停に着くと、そこにはすでに最終のバスが待機していた。深夜料金で倍額になった乗車賃を払い、彼女はバスへ乗り込む。いつも思うのだが、なぜ金とはどこも深夜帯になると跳ね上がるのだろう。客が店に払う料金はまだ理解できる。なんせ店を開けていると言うだけで光熱費はかかるのだ。昼間とさほど変わらない光熱費やら何やらでかかる経費が、深夜の少ない客数とは割に合わないのだろう。解らないのは深夜の働き手の賃金だ。だって昼間より絶対に暇なはずだ。それなのに金だけは特別手当付きで支払われる。おかしい。一概にそうとは断言できないが、アイツらはヒトより下等な労働をしているくせにヒトより労われているのだ。おかしいだろう。まさか客が深夜に払う割増額は、彼らの賃金としても影響しているのだろうか。ヒトと少し違うだけで可愛がられている。それが法律で規定された可愛がり方なのだから、世の中はおかしいことだらけだ。世界がおかしい。私はおかしくない。私の言い分は得てして間違いではないはずだ。間違いではないと思いたい。慰めたい。間違いではないのだと幾度も言い聞かせる。彼女は惨めな自己満足で自分を宥めた。バスに乗り込んでから三歩ほど歩く間のことだった。
 バスの乗客は、彼女の他に一人。小奇麗なスーツを着たサラリーマン風の男性は、二人掛けの席の窓際に座っていた。彼女はその男の、ちょうど通路を挟んで反対側の席に座った。進行方向から左が彼女、右が例の男性。彼女がその席を選んだことに、特に意味はない。ガロン、深夜に響くけたたましいエンジン音が、バスの出発を告げた。
 バスが走る。人気のない街を縫う。
 窓の外の流れていく景色を見ていた彼女は、例の感覚に襲われた。さらさら、さらさら。耳には聞こえない微かな音を立てながら、砂が舞うような。この感覚の特に厄介なところは、彼女自身が気づいた頃にはもうずいぶんと風化が進行していることだ。止められないのだ。いや、止めたくないのかも知れない。いっそのこと世界から浮かび上がってしまいたいのかも知れない。そうやって自分以外の生きとし生けるものすべてを見下ろしたいのかも知れない。そして安心したいのかも知れない。そんな悲しい自分を憐れみ、愛し、浸りたいのかも知れない。嗚呼、自分はなんて醜悪な人間なのだろう。こんな自分では誰からも疎まれるだけだ。だがこんな自分でも私は世界に参加したいのだ。自分の存在を知らしめたいのだ。認められたいのだ。世界に見放されるのが怖いのだ。可哀想な自分を可愛がりたいのだ。
「あの」
 不意に掛けられた声が、彼女の意識を連れ戻す。あのスーツを着た男だった。
「大丈夫ですか」
「はい?」
「顔色悪いですよ」
「ああ、はい、そうですか」
 なんだよ、ナンパかよ。お堅そうな格好してやることはやってんだな。でも今私には金もないし、あったとしてもお前なんかにつぎ込んでなんかやらないし。ホテルなら綺麗で清潔なお高いところに連れて行けよ、お前の金で。だったら考えてやってもいいよ。
 彼女はヒトの心遣いというものを、素直に受け取れない人種だった。優しさは見返りを求める奴らが故意に見せるものだ。ヒトはみんな自分を可愛がり愛おしがる滑稽な生き物なのだから。そんな彼女の考えを肯定するかのように、彼女からぞんざいな扱いを受けた男はそれ以上の言葉を紡がなかった。

 自宅マンションにたどり着いた彼女は、電気もつけないまま、まず例の感覚を追うことに専念する。女性の一人暮らしにしては少々広すぎるほどの部屋の中、暗闇に身を委ねるかのように息を潜めれば、あの感覚は急激に加速していく。さらさら、ではなく、ざあざあ、とノイズのような喧しい音を立てながら、それは滞りなく崩壊していく。すると浮遊していただけの意識に、また新たな感覚が加わる。どこまでも重く沈んでいくような、それでいてどこまでも宙に浮かんでいくような、二つの相反する感覚が同時に彼女を襲う。
 沈んでいくのは身体であり、浮かんでいくのは精神である。彼女はそう理解していた。身体とは人間の殻であり、その内を満たしていたはずの中身が殻を残して出て行こうとしている。殻を見捨てようとしている。何をしようとしている。この殻はお前がいないと何の役にも立たないただの物量だ。お前はこの殻を保つために必要とされているのだ。必要としてやっているのだ。お前がいなければこの殻はまったく言うことを聞かない。好き勝手に暴れ始める。私は何も命令していないというのに両手の拳は堅く握り込まれる。全身がガクガクと痙攣する。眼球の奥に靄が行き交う。それらが無秩序に弾け飛び頭を圧迫する。さっきから何をばたついているのだこの左足は。曲げたり伸ばしたり忙しい奴だな。右足に至ってはそんな左足をただ傍観しているかのように強張る。時折思い出したようにぴくりぴくりと跳ねている。お前はマグロかよと言いたくなる。言いたくなるが舌が痺れてうまく言葉を発せない。確かに声帯は震えているのに、まるで耳に膜が張ったかのようにその声はくぐもって聞こえる。出て行くな。見捨てるな。勝手に私を置いて行こうとするな。ああ面倒だ、億劫だ。自分の身体なのに自分の思うように扱えないのだ。生意気ではないか。ただの殻のくせに。お前らは生意気だ。さっきから身勝手に自己主張しやがって。それにこんなにも晦渋な思考を巡らせているのは脳ミソ、お前だろう。なぜお前は私を混乱させる働きしかしないのだ。お前まで私に刃向かっているのか。それになぁ、おい、筋肉。なぜそうもビキビキと騒ぎ立てる。お前のせいで骨まで軋んでいるではないか。ふざけるな。骨も骨だ。お前は人体の中で最も硬い組織なのだろう。簡単に軋んでやるなよ。
私が放棄しようと思えばお前たちはいつでも用なしになる。この世から綺麗に消し去れる。その決定権を持っているのは私だ。お前たちを所有しているのは私なのだ。『私』は何なのだ。私を形作っているものがお前たちだとするならばそのお前たちを所有している『私』は何なのだ。『私』はどこに存在しているのだ。どこに『私』は生きているのだ。いなくなってしまえお前なんか。私なんか。いやだ。存在していたい生きていたい愛されていたい誰かから望まれていたい。誰も私なんか望んでいないだろう。ならばいっそいなくなってしまえれば楽じゃないのか。それも怖いのか。怖い、嫌だ、助けてほしい、しにたくない。そんなお前を私は大嫌いだ。私はお前が、私は私が疎ましくて仕方ないのだ。くたばっちまえ私なんか。嫌だ私を見捨てるな。見捨てる気なのかお前は。お前が、私が。お前は、私は。
『私』は、どこにいる……――?
 ゴンッ、と頭上から響いた痛みに、彼女はふと我に返る。どうやら強くフローリングに頭を打ち付けたらしい。ああ、痛い。鮮烈な外部からの刺激。それは彼女をひどく安心させた。今まで分散していた自分が、一つの鮮明な感触のもとに繋がったような。しかし一度は緩やかになった離散は、痛みを失えばまたその勢いを取り戻す。この離散の感覚を深追いしたのは他でもない彼女自身であるのに、彼女にはこの離散がとても恐ろしく思えた。それは本能のようなものなのだろうか。これ以上自分自身を分裂させることは、恐怖だった。
 彼女はもつれる足でリビングの戸棚を目指す。だがうまく足を運べずに躓き、結局は床を這うようにして進む。手をかけた引き出しは筆記用具類を雑多に並べてあるもの。そこからいつものカッターナイフを取り出し、彼女は幾筋にも連なった手首の傷痕に倣い、その歯を自らの肌にあてがった。両手が震えているのは痛みへの恐怖からではない。例の離散が続いているからだ。その証拠に彼女の身体は、ピリピリと皮膚を裂く痛みを感じると落ち着き始める。離散が収束され始めているのだ。
繋がる。皮膚と、その下にある肉と、切られたと感じる感触と、それを伝達する神経と、受信する脳と。総てが痛みのもとに繋がる。痛みのもとに取り戻すことができる。傷口から流れる血液を見ていると、彼女にはこれがあの離散していく砂に染み込み、勢いを鈍らせているように思えた。
 彼女はこうして離散と収束を繰り返す。刃物のこのような使い方を覚えたのは一年ほど前からのこと。以前までは腕に爪を立てるほかに、手の甲に強く噛みつく、皮膚が千切れるほどつねるなどして離散を引き止めていた。おかげで彼女の体の一見では分からないような箇所、腕のみならず、腿や脇腹といった肌の柔らかなところには、皮膚が黄ばんだように変色している部分もあった。
 この離散は一体何なのか。離散、と言うより、その離散によって引き起こされる分裂、と言うべきだろうか。単に身体と精神が乖離するだけではない。身体は身体で、そして精神は精神で、それぞれが意思を持って独立していく感覚。例えば身体なら部位ごとに切り離される。腕、手、指というように独立し、さらにそれらが皮膚と神経と血管と肉と骨に、そしてそれらを形成する組織に、組織を形成する細胞に、細胞を形成する成分に、と細かく分解され独立していく。精神は、感情、思考、記憶、意識、全てが別個に各々で物事を考え始める。果たしてどこまで切り離せるのかは分からないが、彼女にはその独立が確かに起こっているのが自覚できた。彼女というたった一人の人間の中で起こる離散、分離、分裂。自分自身が何一つ分からなくなり、何一つ信じられなくなる。
 彼女は意識を手放した。血の気が失せたでも、ましてや眠気が襲ってきたでもない。まるでブレーカーの落ちた電子機器のように、彼女の意識の糸はぷつんと切れた。


「ああ、あなただったんですか。体の具合はいかがですか?」
「……どうも」
 翌日彼女の前に現れたのは、バスで出会ったあの男だった。翌日と言っても、彼女がバスに乗った頃にはすでに日付を跨いでいたので、彼と出会ってからまだ半日も過ぎていないのだが。それに、出会った、などと言う言い方も彼女の中で合点がいかない。出会いだなんて大層なものではなく、彼はただ街ですれ違った大勢の他人のうちの一人。その程度の存在だった。
 二人が対面しているのは彼女のアトリエの玄関先である。アトリエと言っても、彼女の住むマンションの一室を仕事場として借りているだけのものであり、生活感は皆無の場所。その割にはとても雑多な部屋である。描きかけのキャンバスやスケッチブックが立てかけてあるまま、床などには多種多様な塗料と顔料が散乱しており、大小様々な筆、ブラシ、針金、布、中には本物の枯木や枯葉といった植物まである。また素人目から見たら何に使うものなのか見当もつかない道具が、あちらこちらに置場なく放置されている。
 彼女はここで作品を生む。それが彼女の仕事である。
「以前の担当から聞いていますよ。あなたは変わり者のアーティストだと」
「そうですか。悪口でも聞かされていたんじゃないですか」
「ええ、とても生意気だそうですね。確かに昨日お話しした印象だと、素直な人には思えませんでした」
「それはどうも」
 彼女は男に背を向け、玄関からすぐの応接室へ向かう。
 おいおい冗談じゃねーよなんだってこんなとっつきにくそうな奴が私の新しい担当なんだよ先が思いやられるよ。
 彼女はすぐさま悪態を吐き始める。もちろん声には出さず、胸の中だけに留めておくが。この不平不満を並べ立てることは、なんとも忌々しい彼女の日頃からの癖である。
「けれど、才能はある、とも」
 男の言葉は彼女の背中にかけられた。
「ああ、おだてとか効きませんから、私。何言われたって締め切りを破るときは破るし、仕事投げ出すときは投げ出すので。その辺は聞いてなかったみたいですね」
「いえ、これは僕個人の意見です。意見と言うか、あなたの作品を見た僕の感想です」
「……」
「本音ですよ」
 男から発せられた意外な言葉に、彼女は思わず顔を上げる。驚いた。さっき自分を否定的に見ていた人物が、次には肯定的な言葉を自分にかけるなんて。ただの建前だろうか。だが今までの口ぶりからすると、彼は悪辣な性質を隠さない自分のような人間に対して、へつらうような卑小なことはしそうにない。
 掴めない人だ。彼女は彼をそう認識した。

 ホヅミです、と彼は名乗った。名刺を手渡されたものの、彼女にはその名前が読めなかったため、彼は口頭で名乗るはめになったのである。
「初対面の人は大抵読めないんですよ」
 へぇ、と彼女が聞き流すと、だから気にしないで下さい、と彼は付け足した。彼女は他人の名前が読めないことに特に罪悪を感じない人間ではあったものの、すいません、ととりあえず失敬を詫びた。
「見たことなかったもので、八月一日って」
「まあ、読めませんよね」
「読めないと言うか、普通に読んじゃって読めないです」
「あなたは面白い日本語を使いますね」
 ホヅミは何かを含んだような笑いを見せた後、では本題に入りますか、と彼女に向き直った。
 ホヅミという男は背が高く、どちらかと言うと細身であった。だからと言って貧相な細さではない。どこか気品の漂う身のこなしが、彼をしなやかに思わせる。応接用のソファーに腰掛けたホヅミは、指先を絡ませるように組んだ手を脚の上に置き、落ち着いた声色で話しを始めた。時折、その組まれたままの手が彼の口調に合わせて動く。先ほどから見ていると左利きではなさそうだが、なぜか右の手首に腕時計をつけている。どこかのブランドものであろうそれは仰々しくはなく、シンプルでありながらも存在感があり、趣味が良い。その他の言葉遣いや細かい所作から見ても、どことなく彼の育ちの良さが窺える。
 きっと頭も良いのだろう、アートディレクターなんてそうそう簡単になれるものではない。作品を見極める専門的な知識や、規範に捕らわれすぎない直感力や判断力、求める作品のなるべく効率の良い入手ルートの確保、そのための広い人脈と機転、延いては人柄までをも要求されてくる面倒くさい仕事である。彼らの大体が一般的なものよりもランクの高い教育を受けてきた連中だ。当然、金もかかる。人を生まれで判断するわけではないが、融通の利く金銭とそれに見合う生活水準の中で生きてきた人間は、やはり生まれながらにして持ち合わせたものが違うのだ。これは彼女がこれまでに培ってきた勝手な教訓だが、あながち誤りではない考え方である。
 顔は、良い。黒髪だが堅苦しそうには見えない清潔感のある髪型。男らしくも均整のとれた眉。彫りの深い目鼻はそれでも悪目立ちはせず、人の目を惹く端正なものである。きっと言い寄ってくる女はたくさんいそうだ。もしくは彼の方から手当たり次第に女を喰っているのかも知れない。そういう軽薄な男なのかも知れない、こんないかにも謹厳実直そうな身形をしているのに。そう言えば昨夜も自分に声をかけて来た。同じバスの中で。
 ……と言うことは、ホヅミはこの近くに住んでいるのだろうか。それとも周辺に自分と同じような契約作家がいるのだろうか。聞いてみたい気もするが、聞いてどうする気にもなれない。ホヅミの情報などこれ以上知らなくてもいいのではないか。自分の作品を買ってくれるのだから、素性は分かっていた方が安心ではある。だがホヅミは個人経営ではなく、契約先であるギャラリー専属のアートディレクターである。そこまで警戒する必要もないだろう。それに彼がどんな生活を送っていようと、自分には微塵も関係ない。今目の前にいるこの男がホヅミ。それで充分だ。
「……人の話、聞いてますか?」
「あ、すみません、あまり聞いてませんでした」
 少し考えすぎていたようだ。彼女の答えを聞いたホヅミの眉間が、先ほどよりも心なしか寄ったように見える。
「ちょっと、情報を整理してまして」
「情報?」
「ホヅミさんの」
「はあ」
 怪訝そうな返事をしたホヅミはそれでも特に食いつく様子もなく、また仕事の話題へと戻っていく。来秋の展示会に向けての話である。今年のテーマは『葛藤』。まあ、なんとも当り障りのない題目ですね、と彼女が言うと、ホヅミは、まあ凡庸ですよね、と応じた。
彼女は主に絵画で手掛けるアートを得意とする。時には他の表現方法を用いることもあるが、今回もその分野でいこうと話はまとまった。彼女がホヅミを迎えてから、そろそろ一時間が経とうとしていた。
「では作品の内容ですが……あなたは何か、激しい葛藤を経験したことはありますか?」
「葛藤ですか……どうでしょう」
「簡単なイメージでいいですから」
 葛藤。抗争、悶着、喧嘩、対決、対峙。戸惑い、躊躇い、苦しみ、悩み。
 彼女は考えを巡らせる。これまでの特に大きかった葛藤は何か。激しい紛争は何か。彼女の中で起こり得た最も甚だしいせめぎ合いは何だったか。
 ふと、彼女は思い当たる。
「……あの」
「はい」
「葛藤、とは、ちょっと違うかも知れないんですけど」
「どうぞ」
「ホヅミさんは、分裂しますか?」
 彼女が辿り着いたのは例の感覚だった。
 自身が離散し、乖離し、分離し、分裂する。一つの単体の中で起こる、いわば一種の紛争である。
「……いえ、忍者ではないので」
「ですよねぇ」
「無性生殖もしませんし」
「あ、感覚はそっちの方が近いです」
「何がですか」
「同じモノがいくつか出来るんじゃなくて、一つのものがいくつものモノに分かれていくんです」
「もう少し気の利いた説明だと助かるんですが」
「説明……しづらい、ですけど……実は昨日ホヅミさんに声かけられたとき、私は分裂してました」
「はい?」
「と言うか、分裂の前の離散の段階ですね」
「はあ」
「……分かります?」
「分かりません」
 清々しいほどはっきりとホヅミは答えた。それはそうだろう。なんせあの分裂は彼女の内でのみ起こっている現象であり、それが他人から見えるはずもなく、ましてやその感覚を理解してもらうことなど容易ではない。この話はさっさと流そう。彼女はそう思い、諦念の籠ったため息を一つ、小さく吐いた。
「分かりません、が」
 視線を下げた彼女に、ホヅミが続ける。
「それが、あなたにとっての最も激しい葛藤なんですね?」
「ええ、まあ」
「では聞きましょう」
「……」
「話していただけますか」
「……どこから話せばいいのやら」
「最初からです。最初から全部。じゃないとあなたの感覚は、私には分からないことだらけのようですから」
 これは長くなりそうだ。そう悟りながらも、彼女はポツリポツリと話し始めた。

 彼女はホヅミに打ち明ける。自分は分裂するということを。
 まずそれは、砂が崩れていくような離散から始まり、最終的には分裂へと発展していくこと。身体と精神とが噛み合わなくなること。それは単なる分離ではなく、身体と精神がさらに細かく断裁され、独立していくものであること。『自分』から切り離されていくこと。すると、では『自分』はそもそもどこにあるのかという疑問に行き着くこと。『自分』が分からなくなること。信じられなくなること。怖くなること。その現象は幼い頃から起きており、何がきっかけだったのかはもう定かではないこと。抽象的な説明しか出来ないが、その現象は確かに彼女の中に存在すること。
「こう、自分がどこにいるのか……『自分』という自我がどこにあるのか、分からなくなっていく感じ……脳ミソでも心でも、まして体でもないじゃないですか。……あれ、でも心って心臓なのかな。まあいいや。で、その上、分裂したヤツらが、勝手に意思を持ち始めていって……だから……」
まるで独り言でも呟くような喋り方だったが、ホヅミはただ黙って彼女の言葉に耳を傾けていた。
 今自分は、ホヅミからどんな目で見られているのだろう。ホヅミは自分をどう思って見ているのだろう。理解してほしいとは思わないが、腫物のようには思わないでほしい。そっちから訊ねてきたのだから、こっちは答えてやっているだけなのだから。膿を出すのだって辛いのだから。痛みに手を突っ込んだのはそっちからだろう。私は何も悪くない。
 彼女はこうして、痛みの責任を転嫁する。ただ怖いだけなのだ。彼女が日頃から全ての事物を批判的に捉えるのは、自らが批判される側になることが、否定されることが怖いのだ。醜い自分に触れられることを恐れ、自ら棘を張り巡らせ、誰にも自身を曝すことをせず、傷つけられるより、傷つける側の人間として安穏に生きていく。彼女はひどく脆弱で醜悪な人間なのである。それを自覚し、気付かぬふりをしている。さらに陋劣だ。
「……もういいですか。これ以上話したって無駄ですよ、どうせホヅミさんには分からないです」
 堪えられなくなり、彼女は話を切り上げようと席を立つ。今さらだが客人に茶の一杯も出していないことに気がつき、それを理由に逃げた。ホヅミは彼女がキッチンへ向かうのを、静かに見送った。
 しばらくしてマグカップを二つ持って帰ってきた彼女は、どうぞ、とホヅミの前にコーヒーを差し出し、再びソファーへ腰を下ろす。小さく頭を下げたホヅミは、しかしカップには手をつけない。インスタントは気に入らないのだろうか、そう言えば育ちが良いのだから当たり前か、それとも顔に似合わずブラックでは飲めないのか、アイスの方が良かったのか、ああ、もしかしてコーヒー派ではなく紅茶派だったのか、いや緑茶派だったのかも知れないな。彼女は様々な仮説を瞬時に立てた。
「……一つ、聞いてもいいですか」
 彼女が一口目のコーヒーを啜っていると、ホヅミが久しく口を開いた。彼の口が動いたのは、例の分裂の説明を始めて以来だった。
「何でしょう」
「その分裂は、一体どうやって終息するのですか? 何か食い止める方法があるのか、それともいつの間にか終わっているのか」
「……」
「だって分裂し続けていたら、あなたはいつまでも錯乱したままのはずでしょう?」
「別に、私はいつでも正気ですよ。もし分裂の間に私が錯乱しているのであれば、冷静にその過程を分析して、こうして把握してはいません」
「……なるほど」
「いっそ何も覚えていられないくらい発狂してしまえれば、それはそれで楽かも知れませんけどね」
 彼女は二口目のコーヒーを口内へ流し込む。一口目よりやけに苦く感じた。やはりインスタントはいけない、いくら香りを売りにしているメーカーだって、本物には到底敵わない。鼻腔に広がる下卑た香り。彼女は思わず眉を顰める。ああ、でも本物ってなんだろう、挽き立ての良質な豆のことだろうか。彼女がまた考えようとした、その時。
「……それ」
「はい?」
「どうしたんですか」
 ホヅミが差したのは、彼女がカップに添えた手の手首。厳密に言うと、その手首に巻かれた包帯である。ちょっと捻挫して、と答えたが、ホヅミは少々乱暴にも思える仕草で彼女の手を掴む。衝動で持っていたカップは彼女の手から滑り落ち、ゴトンと音を立てて床に落下した。黒い液体がフローリングの溝へ染み込み、妙な生き物のように広がっていく。彼女の目にはその一連の光景が、ゆっくりとコマ送りのように映像化され、情報化されて映った。
「……捻挫で切り傷はつきませんよ」
「そうですか」
「こんなにたくさん……自分でやったんですか?」
「そうですね」
「例の分裂と関係が?」
「身体的に痛みがあると、分裂が止まるんです。なんか安心して。ちなみにMとかじゃないですよ」
 彼女は軽く笑って見せた。
「離して下さい」
「これ、まだ新しい傷ですね」
「ちょっと」
「昨日も分裂したって言ってましたよね」
「あの」
「昨日と言うより、今日ですけど」
「おい」
「切ってから数時間しか経ってないんじゃないですか」
「離せって言ってんだろ聞こえねーのかテメーは」
「あなたはここにいるじゃないですか」
「……」
「あなたは、ここにいますよ」
 彼女の手を握るホヅミの力が強くなる。
触れられている。自分が、他者から、確かに。その存在に存在として触れられている。
「雪さん」
 『雪』。彼女がアーティストとして用いる名前である。もちろん本名ではない。彼女は夏生まれである。
「本名、聞いてもいいですか」
「……聞いてどうすんだよ」
「どうもしませんよ」
「あんたに何の関係もねーだろ」
「はい、ですが聞きたいんです。個人的な興味です」
「……」
「ダメですか?」
「……し、」
「し?」
「……えみ」
「えみ?」
「いちなし、えみ」
「どんな字を?」
「色の白に、永遠の、海」
「しろ?」
 白 永海。
 これが彼女の本名である。永海が本名を名乗ったのは久しぶりだった。
「……イチナシさん。珍しいですね」
「あんたに言われたくない」
「なぜ『雪』という名を使っているんですか?」
「……雪は、白いでしょ。積もったら、海みたいになるし」
「ああ、素敵な名前だったんですね」
「ただのダジャレじゃん」
「あ、なるほど」
「納得するなよ。なんか腹立つ」
「……あなたが言ったことでしょう」
「他人から言われるとムカつくんだよ。素敵な名前って言っとけ」
 そう言うと、ホヅミは呆れたように微笑んだ。ああ、コイツも笑うんだ。永海は妙に感心した。
「改めまして、白永海さん。八月一日慶太郎です。よろしくお願いします」
「……何、いきなり」
「慶応大学の慶に、普通に太郎で『慶太郎』です」
「だからさ、何なの急に」
「永海さんは、なぜ『永海』なんですか?」
「……夏に生まれたから」
「誕生日は?」
「七月二十日」
「海の日だったんですね」
「……ホヅ……、けいたろうさん、は」
「はい」
「なんで、『慶太郎』なんですか」
 永海はホヅミに、もとい、八月一日慶太郎に訊ねていた。他人に、関心を持った。
「僕、長男なんですよ。それで『太郎』って。ああ、ちなみに『慶』は、父が『慶彦』だからです。一文字とって、『慶太郎』」
 ホヅミという男が色づいていく。永海の中で、八月一日慶太郎という人間になっていく。永海にとってそれは、とても新鮮な感覚だった。
 気づくと永海は、彼にたくさんの質問をしていた。誕生日は、年齢は、家族は、仕事は、なぜアートディレクターになったのか、今のギャラリーに就いたのはいつか、何がきっかけか。慶太郎は永海の傷跡に触れたまま、全てに答えた。
 そして永海は自分自身のことも話した。モノを作ることに目覚めたのは保育園での工作の時間であること、実家にはしばらく寄りついていないこと、飼っていた猫が少し気がかりなこと、よく聞く音楽のこと、好きなアーティストのこと。それを聞いた慶太郎は、自分が影響を受けた画家の話をしてくれた。永海もまた、その画家についての自分なりの見解を述べてみる。慶太郎は自分の捉え方とは異なる彼女の意見を聞いていた。否定も肯定もせずに、ただ受け止めたのだ。
 たくさんの話をした。たくさんの言葉を交わした。たくさんの慶太郎に触れ、また永海自身も、たくさんの自分を曝け出したような気がする。そこに恐れていたほどの痛みは、なかった。
 不思議なものだ。前日まで顔も知らなかった者同士が、偶然同じバスに乗り込み、少しの会話をし、数時間後にまた再会し、それがなかなか長い付き合いになりそうな間柄としての出会いであった。
「忘れないで下さい、永海さん」
 慶太郎は言う。そっと永海の傷跡に、手を当てながら。
「僕はアートディレクターとして、アーティストである雪さんの作品を評価しています。そして、八月一日慶太郎として、白永海さんのことももっと知りたいと思います」
こくり、永海は頷く。
「僕はあなたのことを認めているし、あなたの作品を見て何かを感じ取っている人だって、何も僕だけではありません。実際うちのギャラリーにも、雪さんの作品への称賛は届いています」
 こくり。
「今ここにいるあなたを、アーティストである雪さんを、雪さんである永海さんを、少なくともここにいる僕は望んでいます。覚えておいて下さい」
 こくり。こくり。永海は慶太郎に頷いた。何度も何度も、頷いた。

 きっと彼女の分裂がすぐに止むことはないだろう。なぜならその現象が、彼女の一部であるからだ。切り離すことはできない。切り離してしまえば、彼女はまた分裂してしまうことになる。手首の傷はまた増えることもあり得る。だが、受け入れなければならないのだ。自分自身と向き合うために。他人に触れることを覚えるために。他人に触れてもらうことを覚えるために。
 不安定な砂の上を、踏みしめて歩いていくために。

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